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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第33回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1945-1989戦後編。

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【昭和史1926-1945】

日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】

【第15回】 【第16回】 【第17回】



【昭和史1945-1989戦後編】

【第18回】 【第19回】 【第20回】

【第21回】 【第22回】 【第23回】

【第24回】 【第25回】 【第26回】

【第27回】 【第28回】 【第29回】

【第30回】 【第31回】 【第32回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社です。


第15章
昭和元禄の”ツケ”


昭和39年(1964)10月
オリンピックが華々しく行われ、
無事に閉幕しました。
しかし実は、
総理大臣の池田さんは
その前からガンを患(わずら)って
入院していて、
閉会式には病院から
出席したんですね。


これを花道にして、
オリンピックが終わると
ほぼ同時に引退を表明しました。
10月25日のことです。


11月9日に両議院総会を開き、
次期総理として
佐藤さんが決まりました。
同日、池田内閣は総辞職し、
佐藤内閣が成立します。
といっても閣僚を
そのまま残し、
首相だけが変わった
というかたちです。


佐藤さんも、
池田さんの政策を
踏襲すると表明していました。


ただ、佐藤さんには
自分なりの考えがありました。
池田さんは、
フランスのド・ゴール大統領に
「トランジスタラジオのセールスマン」
とからかわれるほど
経済成長に全力を尽くした一方で、
政治的・外交的な問題に
あまり熱を入れなかった
ところがあるのですが、
佐藤さんはそうではなく、
いろいろと積み重なり
残されている問題を
少しでも解決しなくてはと、
池田さんが意識して
避けていた政治的な問題に
取り組むことにします。


そこでまず
昭和40年(1965)1月、
暗殺されたアメリカの
ケネディ大統領の副大統領で、
その後を受けて就任した
ジョンソン大統領と会談し、
日米間の懸案だった
沖縄、小笠原諸島の施政権の
問題を解決したい旨を
両者で確認します。


続いてこれも懸案の1つ、
戦後ずっと国交のなかった韓国と
国交正常化に取り組み、
6月には日韓基本条約と
付属の協定に調印します。


8月になると、
佐藤さんは首相として
戦後はじめて沖縄を訪問します。
そして那覇飛行場で
堂々と宣言した


「沖縄が祖国復帰しない限り、
戦後が終わっていない」


要するに
自分の内閣の生命をかけて
沖縄問題を解決する
という宣言です。


IMGP1407.jpg


対して世界は大きな動きを
見せはじめていました。
ひとつはベトナム戦争です。


そもそもは
昭和37年(1962)2月に
アメリカは
在ベトナム軍事援助司令部を
設置して、
軍事顧問団4,000人を
南ベトナム(ベトナム共和国)に
派遣しました。
これが
北ベトナム(ベトナム民主共和国)と、
その後ろ盾になっている
ベトミン(ベトナム独立同盟会)とを
刺激します。


結果としては、
このアメリカの積極的な
南支援の介入が
本格的な戦闘へと
展開させることに
なったといえましょうか。


27ヶ月に及ぶ北爆は、
戦費16億ドル、
出撃機数20万機余、
投下爆弾16万トン余と
言われています。


実践部隊が入ってくると、
今度は対抗して
中国やソ連が介入してきまして、
ベトナムは冷戦下にある
大国の代理戦争の
犠牲となったのです。


昭和41年(1966)5月16日
中国で文化大革命がはじまりました。


昭和42年(1967)6月5日
イスラエルとエジプト間で
6日間戦争(第3次中東戦争)が
勃発します。
イスラエル軍が一気に攻め入りました。
制空権を奪い、
次いで戦車を
主力とした部隊が侵攻し、
シエナ半島、エルエレム旧市、
ゴラン高原を占領します。


6月11日にあわてて
国連が間に入って停戦し、
戦いは6日間で終わったのですが、
あのまま続けば
世界戦争に
つながっていくのではないか
という危機感は
全世界に走ったのです。


5月には
パリでは5月革命が起きます。
(ゼネスト、
全国的な規模で行われる
ストライキです)


実に多様な反体制運動が
生まれ出たんです。
全世界的に。
かつてのような
指導部への服従なんてことは、
まず否定されなければ
ならなかった。
60年代後半からの
ものすごい
反体制・反社会・反戦運動とは
そういうものだったと
思います。


日本でも
「戦後民主主義も
空洞化しつつある」
「金持ちがいい気に
なっているような日本は
前途が危ぶまれる」と、
反戦・反政府運動をはじめます。
それも大学生が
その中心になったのです。


あの頃、
対岸の火事のような朝鮮戦争、
さらにはベトナム戦争などで
儲けて豊かになった日本では、
成金はレジャーや宴会や
海外旅行にウツツを抜かしている、
たしかに高度経済成長が
軌道に乗り、
働いている人たちは
懸命に汗水流していますが、
富裕になった世の中の体制は
もうしっかりと確立している。
まだ社会に出ていない人たちは
そのどこにも入る余地が
ないように思われるわけです。
混沌状態はとうの昔の話で、
今や貧富の差ははっきりし、
世の中はきちんと
出来上がってしまった。
閉塞感あるのみ。
そこから若者たちの
反逆というものが
はじまるんじゃないか、
ということで、
ここをもう少し
詳しく見ていきます。


国内の政治の世界を見れば、
いろいろな問題が
起こっているはずなのに、
共産党も社会党も
ほとんど無力です。
その上、経済至上主義で、
大学そのものが
経済界や産業界と
結びつくようになって、
その要請に応じて
学生を増減させている。
ちなみに昭和35年から42年までに、
大学数は245から369に、
学生数は67万人から116万人へ、
2倍弱にまで増加しました。
大学も
さばき切れなかったのでしょう。
自分たちの学んでいる大学が
堕落している、
金儲け一点張りだ、
という怒りがつのって
ゆきました。


もう1つあえていえば、
団塊の世代は、
高度成長のもとで
もの心がつきましたから、
お互いの競争関係を
別にすれば、
日常生活に不自由を
感じたことがない、
我慢したことがないんです。
ただちにかなえられる。
そうした自分たちの
高度成長下の生活は、
よくなっていって当たり前で、
悪くなってはたまらない、
そんな意識が
根底にあるんですね。


一方で世の中を見れば、
自分たちのお父さんたちは
ほんとうに一生懸命に働いていて、
しかもしっかり
組織に管理されている。
経済中心、産業中心、
会社中心の会社封建時代なんです。


昭和の戦争中は軍国封建主義、
さらに戦後は
会社封建主義になった。


終身雇用制もありますが、
皆が会社のため、
会社のため、と働いていました。


当時の企業戦士の理想像は、


「スモッグの街を突っ走り、
先輩同僚の眼をムかせ、
夜はハシゴの先に立ち、
今朝もキッパリご出勤」


これが当時の
肝臓の薬の広告なんです。


くだらない大学の授業。
公害や環境の問題。
世界の各地で
盛んな革命や学生運動、
もういろんな要因が重なって、
許せない思いがつのり、
日本国内は
大混乱に次ぐ大混乱に
陥るのです。


全学共闘会議(全共闘)という
組織が生まれ、
大学側と対立するように
なりました。


そうなると当然、
警察側と
対決しなくてはなりません。
完全武装です。


そこで学生たちも
対抗するために
ヘルメットをかぶり、
タオルで顔を隠し、
「機動隊の暴力には
われらもまた
暴力で闘うのみ」
と手にゲバ棒を持ちました。
ゲバ棒というのは、
ゲバルトという
暴力行為を意味する
ドイツ語がありまして、
要するに暴力棒です。


また、やがて闘争の母胎として
いろいろなセクションが
生まれて、
「五流十三派」とも
言われました。


すると流派同士で闘う
「内ゲバ」まで起こりはじめ、
だんだんに暴力化して
わけがわからなくなってきます。


そんな闘いには興味がないという
「ノン・ポリ」
(ポリはポリティカルの略、政治)、
また学生なのか
革命闘士なのか
わからないような「ポリ・ポリ」
が現れたり、
流派に属していない「ノン・セクト」、
何も知性がない「ノン・テリ」
暴力しか能がない「単ゲバ」やら
いろいろな言葉がはやりました。


昭和43年(1968)10月21日の
国際反戦デーには、
新宿駅を中心に
全学連と警官が
大市街戦をやりました。
学生は火炎瓶を投げるわ、
機動隊は催涙ガスを撃つわで、
夜の新宿が
明るくなったほどでした。
こういった乱闘が
日常的に行われるなか、
クライマックスとなったのが、
東京大学の安田講堂占拠です。


日大とともに
運動の中心になっていた
東大の学生たちは、
まさしく権力の走狗(そうく)ばかり
生み出した
日本を悪くしたのはみな東大だ、
その歴史は汚れに汚れていると
「東大解体」を叫んでいました。


そして昭和44年(1969)は、
東大安田講堂攻防戦で
年が明けたといっても
いいほどです。


「砦の上に我等の世界を」
という合言葉とともに、
安田講堂は全共闘によって
占拠されました。


下からはガス弾、
上からは投石や火炎瓶…
このようすを朝から晩まで
テレビで流しました。


東大はあまりにも
ガタガタになってしまい、
その年の入学試験は
中止になりました。


安田講堂の封鎖が解除され、
全員が逮捕されて
騒ぎが終わりますと、
妙なもので、
多数の一般学生を
組み入れたところの
大々的な学生運動が
萎んでしまい、
消えてなくなったかのように
静かになってしまうのです。


けれど、どうにも
おさまらない人たちは
たくさんいました。
新左翼というのですが、
これまた革マル
(革命的マルクス主義派)とか
社青同(社会主義青年同盟)など
各派に分かれ、
どんどん少数に
なってくるのですが、
内ゲバをやったりしながら
街頭に出ては
機動隊と衝突するわけです。


もっとも過激な赤軍派の
よど号ハイジャック事件。
連合赤軍事件からの
浅間山荘事件。
こういった事件があったのですが、
だんだん小さくなり
沖縄返還交渉前のゲリラ戦で
2,000人が逮捕されただの、
大騒ぎはしているものの
一般の人たちは
もうほとんど関心を
失っていました。


ともあれ全体的にみて、
安田講堂解放で
騒乱はほぼ終わったと言って
いいかと思います。


昭和45年(1970)3月14日
日本万博博覧会が
大阪府吹田市で開幕します。
よど号ハイジャックの半月前です。


9月13日の閉幕まで
183日間ありましたが、
入場者数は
6421万8770人だそうです。
最終的には165億円の黒字でした。


またこの年は
70年安保の年でもありました。
つまり60年安保が
何もなければ
自動延長される年です。


60年安保時の最高の
50万5000人をはるかに超える
77万4000人が参加したにも
かかわらず、
まことに静かなるデモに終始し、
自動延長はあっさりと
通過したのです。


昭和45年11月25日
作家の三島由紀夫さんが
自衛隊市ヶ谷駐屯地の
東部方面総監室に乗り込み、
総監質前のバルコニーの上から
大演説をぶちます。
憲法改正・天皇親政の復活を
大声で訴え、
割腹自殺したわけです。
これもまた
テレビで延々中継しまして、
日本じゅうの人が見ていました。


安保の年と言われた
70年が三島さんの死をもって
終わりました。


戦後日本をどこで完結したか。
いろいろ見かたはあると思いますが、
私は佐藤内閣がやった
沖縄返還ではないかと思います。


佐藤内閣はどうしても
施政権を日本に
取り戻そうとします。
困難極まる交渉を承知で、
昭和40年(1965)に
「沖縄に返してもらわないと
戦後は終わらない」
と発言して以来、
返還運動に正面から
取り組んだのです。


一方で
「核をどうするのか」
に関しては
さまざまな議論がなされます。
そこで佐藤さんは
「核を造らず、
核を持たず、
核を持ち込まず」
非核三原則と言われる
国策を決定し、
沖縄を返してもらう際も
アメリカに
「核抜き」
を承諾してもらう
という態度を決めます。


アメリカは
日本の事情を承知して、
昭和44年(1969)11月、
佐藤・ニクソン会談において、
合意にいたりました。


昭和46年(1971)6月17日
「沖縄返還」の協定を調印し、
佐藤内閣はまさに沖縄返還に
成功しました。



ここまで読んでみますと
オリンピックが終わった後の
60年代のことが書かれています。
闘いの年代です。


海外では
ベトナム戦争、
中国の文化大革命、
第3次中東戦争、
パリの五月革命。


60年代後半の
反体制・反社会・反戦運動。
それは日本にもやってきます。


様々な要因が重なって
起きるようですが、
そのひとつに
貧富の差、経済至上主義が
あるようです。


今やっているところと
重なるところがあります。
安保のことや経済格差。
見事に重なるものです。


会社封建主義というのは
たしかに言われてみれば
そうです。


こういった名残が
肩書主義、権威主義があったり、
全ての権限を委ねてしまうから
従う人は無責任になりやすく、
主体性もない。
サラリーマンの方は
すべてではないですが、
サラリーマン思考ですし、
それは経営者の思考とは
まったく別のものです。


環境がそうなのですから、
考え方や価値観も
環境に合わせて
そのようになってしまいます。


いまだに
肩書を欲しがったり、
肩書で人を判断したり
する人がいますけれど、
日本人はそろそろ肩書主義を
卒業されても
よろしいのではないでしょうか。


形は大事ですけれど、
それよりも中身や本質を
見ないといけないのでは
ないでしょうか。
これからはそうしないと
やっていけないでしょう。


どんな肩書を持とうと
間違っているものは
間違っていますし、
能力が無い者は
いずれメッキがはがれます。
嘘はいずればれます。


責任を持たせたり、
そういった立場に置くことで
人は自覚し、
変化したりする場合も
ありますけれど。


縦社会は少なくなって
横のつながりが
より強く、重要に
なっていく時代になります。



安保や経済格差が出た60年代。
70年代になって
佐藤さんから角栄さんに代わって
やったことは日本列島改造論で
地域開発の推進、
日中国交正常化。


現在は格差問題から、
地域の活性化、
地方創生が政策のひとつですし、
中国とも友好関係を
作ろうとしています。


このあたりも流れが重なっています。
本当に時代は繰り返しています。



昭和史も次回で最終回となります。


続く。



【参考・出典】
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第34回

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