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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第31回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1945-1989戦後編。

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【昭和史1926-1945】

日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】

【第15回】 【第16回】 【第17回】



【昭和史1945-1989戦後編】

【第18回】 【第19回】 【第20回】

【第21回】 【第22回】 【第23回】

【第24回】 【第25回】 【第26回】

【第27回】 【第28回】 【第29回】

【第30回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社です。


第13章
安保闘争のあとにきたもの


昭和34年(1959)6月
衆議院通常選挙が行われます。
自民党は改選前より
5つ議席を増やし、
合計132議席の
安定多数を獲得しました。


一時は警職法でやられて
頭をやや引っ込めていた岸さんも
自信を取り戻し、
いよいよ使命とする
安保条約改定に向って
歩みだします。


昭和34年(1959)10月
岸さんはまず
党内で安保改正案を
取りまとめます。


昭和35年(1960)1月19日
ワシントンでアメリカと
安保改正の調印式を行います。
しかし、日本にもって帰って
議会で批准(承認)しなければ
これは生きてきません。
そしていよいよ
国会にかけたところで
問題がはじまったわけです。


安保改定案は要するに、


「共通の危険に対処するために
日本はアメリカに協力する、
その代わりアメリカは
日本を完全に守ってほしい」


というわけです。


さらに、ここが後に
問題になったのですが、


「極東における
国際平和および
安全の維持のために
日本は協力する」


というものです。


では


「極東」


とは
どこまでを指すのか。


ひとことで言いますと、
それまでの
反共産主義という立場の
単なる砦だった階段から、
日本を共産主義に
立ち向かうための共同の陣営、
有力な国家として認めさせる。


つまり、
アメリカの日本防衛の義務を
明確にするとともに、
日本は憲法の範囲内で、
在日米軍への攻撃に対して
積極的な軍事行動することを
約束する、というのです。


日本はアメリカさんと
一緒になって一生懸命にやる、
だからアメリカさんには
義務として
しっかり防衛してもらうんだ、
という取り決めなのです。


アメリカはあっさり調印します。


けれど、
細かく条項を調べていくと、
「極東(far east)」の
範囲の問題がどこまでか
議論が出てきました。


細かく突っ込んでいくと、
改憲や再軍備とは
銘打ってないものの、
あっさりそっちの道を
開くことになるんじゃないか、
というわけです。


こうして
与党と野党の対立がはじまり、
国会は大きく揺れだします。


世論としては、
平和主義の声が
高まり広がっていました。
新憲法に定められた平和主義は
国民的なものに
なりつつあったのです。


そこへ出てきた安保改定は、
なんとなしに
改憲・再軍備に
つながるんじゃないかと、
「再軍備反対」
「安保改定阻止」
の大運動に
発展していくわけです。


岸さんが首相になる前の
昭和31年6月3日、
死の床にあった
三木武吉(ぶきち)さんが
岸さんを呼んで
言ったそうです。


「岸君、
無理押しをするんじゃないよ。
無理押しというのは、
一生に一度しか通らないもんだ」


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ここで社会党と労働組合に加え、
安保改定反対に
全学連が動き出しました。


全学連というのは
昭和23年(1947)に結成された
全国学生自治会総連合のことでして、
はじめは共産党の統制下に
あったものが、
そこから離れ、
昭和33年(1958)12月に
執行部を共産主義者同盟として結成し、
安保闘争をはじめました。


いっぽう共産党系の
民主青年同盟が独自に
反対運動を起こしていましたから、
2つの対立がかえって
「負けるもんか」と
運動を激しくしていきました。


やがて全学連が力を強め、
安保闘争の前面に
立つようになっていきます。


ただ社会党、総評、全学連が
ガンガン反政府運動を進める中で、
一般の人たちはまだそれほど
乗っかっていない状態でした。


国会では議論が果てしなく続きます。
昭和35年(1960)6月19日には
安保条約の日本の批准を見込んで
アメリカのアイゼンハワー大統領の
来日が決まります。


条約というのは
衆議院を通過させれば、
参議院の議決がなくても
30日後には
自然に成立することに
なっています。
従って5月19日までに
衆議院で可決すれば
アイクをお迎えした時に
めでたく成立していることに
なるのです。


岸内閣は是が非でも
その日までに
安保条約の衆議院通過を
決意します。


昭和35年(1960)5月19日
野党は、
「今日をなんとか乗り切れば」
と衆議院議長、
清瀬一郎(きよせいちろう)さんを
議長室に押し込め、
スクラムを組んで
表に出させないよう、
いわゆる缶詰状態にしてしまいました。


一方、強行突破を期する
岸内閣はその日の夜10時過ぎ、
本会議開会を知らせる
予鈴を鳴らし、
安保特別委員会を開きます。


そして野党が欠席のまま
政府と与党だけで
委員会を通し、
こうなると
もう時間との戦いですから、
ただちに本会議に
もっていこうとします。


ところが議長がいません、
どうしようか、
やむを得ないというので
警官隊500人を導入し、
議長室の前で
スクラムを組んでいる
社会党議員を
一人ひとりゴボウ抜きにして
排除して中から
議長を救い出し
担いでいって
衆議院本会議の議長席に座らせます。


そこで清瀬さんが
「ただいまより
本会議を開会いたします」
とマイクにしがみついて
宣言する有名な写真が
残っています。


こうして与党だけの
本会議で法案は
たちまち採決されました。


午前0時6分
議長は本会議閉会を宣言し、
この大事な法案は
わずか数分で
可決してしまったのです。


この強行採決は、
ニュース映画にもなりまして、
翌20日の新聞は
全紙が
「暴挙」
「議会制民主主義の危機」
として書きまして、
大問題となります。


やり方があんまりだというので
怒りが沸騰し、
労組と学生とさらに
一般市民までが一緒になって、
その日から未曾有のデモ隊が
議事堂を取り囲みはじめました。


ここから、
東京の中心を毎日のように
デモ隊が行き交い、
戦場さながらにした
安保騒動がはじまるのです。


以後、約1ヵ月はまさに
デモに次ぐデモ、
もうデモデモの毎日です。


そんななか、
雑誌「世界」5月号の、
デモ隊をさらに奮起させる
大論文が話題になります。
清水幾太郎(いくたろう)の


「今こそ国会へ請願のすすめ」


というものでした。
一部を読みますと、


「今こそ国会へ行こう。
請願は今日にも出来ることである。
……北は北海道から、
南は九州から、
手に1枚の請願書を携えた
日本人の群れが
東京へ集まって、
そこに、何物も抗し得ない
政治的実力が生まれて来る。
それは新安保条約の批准を阻止し、
日本の議会政治を正道に
立ち戻らせるであろう」


これが評判になりまして、
その呼び掛けに応えるかのように
各地から多くの人びとが
上京してきて、
5月から6月にかけて
毎日数万の請願デモが
国会に押し寄せました。


そしてそのクライマックスは
6月15日夜でした。


デモ隊が議事堂の門を
突き破って中に突入したことから、
警官隊がデモ隊に襲いかかり、
それこそ数万人同士の
大乱闘になりました。


臨時閣議が開かれ
治安が保てないという理由で
アイゼンハワー大統領の
訪日は中止してもらうことに
決まります。


6月19日、夜12時を過ぎれば
新安保条約は自然成立です。


こうして
昭和35年(1960)6月23日
目黒の外相官邸で、
ひっそりと日米の批准書が
交換されました。
その直後、
岸さんは退陣を表明します。


そして騒動は、
岸さん退陣の瞬間に
驚くほどサアーッと
終わってしまうのです。


その後、日本人は
足並みをそろえて、
経済的実力と
高い技術水準を備えた
経済大国への道を
志すようになるのです。


昭和35年(1960)7月14日
自民党総裁選に池田隼人さんが
当選しました。
池田さんは
軽軍備・通商国家を
目指してきた吉田ドクトリンの
申し子です。
新聞なども
「政治の季節はもう終わった、
これからは経済の季節だ」
と謳いはじめ、
まさに
「デモは終わった
さあ就職だ」
の時代になったわけです。


所得倍増計画は
12月27日
あっさりと閣議決定されます。
以後3年間の経済成長率は
年平均9%を保つように努力する、
という大方針は
2日後に大々的に発表されます。
これは日本の高度経済成長の
幕開けとなります。



ここまで読んでみますと
60年安保闘争が書かれています。


こうやって
改めて安保改定の流れを
見ておりますと、
集団的自衛権や
日米ガイドライン改定など
今やっていることは
これをなぞっているだけ
のように見えてきます。


今は日本周辺の
緊張関係は
やわらぎましたので、
日米ガイドライン改定
中間報告において
周辺事態という地域限定が
なくなりましたけれど、
(周辺事態削除、
切れ目ない対応、とか
何とか・・・)
アメリカの後ろに
ついていくあたりは
同じようです。


貢献するのは
いいですけれど、
少しずつ少しずつ
常態化し、
既成事実を積み上げ、
改憲・再軍備の流れに
なるのが懸念するところです。



緊張関係を作ると、
そこを利用しようとする
人たちが現れます。


韓国の高高度ミサイル防衛もそうです。
これによって
韓国と北朝鮮・中国との
緊張関係が出来ます。


対立関係を生み、
牽制し合う関係になります。


これによって
一番利益があるのが
アメリカです。


これによって
損をするのは
極東です。


APECで協力していこう的な
話しはどこいったのでしょうか。
アジアと協力する気は
あるのでしょうか。
それとも、利用するだけの
相手でしょうか。


緊張関係をつくり、
それが発展していけば
どうなるかわかるでしょう。


パレスチナ、イスラエルの
ミサイル撃ち合いを見て
なんとも思わないのでしょうか。


アジアやアラブのところに
緊張関係を生み出す種を植えて
牽制するやり方は
そろそろやめていただきたい
と思います。



強引に安保改定を決めた時


「議会制民主主義の危機」


なんて新聞に書かれているあたりが
今年の集団的自衛権と
重なっています。


やはり、
時代は繰り返すのでしょうか。


同じようなことをやって
マスコミに同じように書かれ、
デモも起きました。


安保闘争で
東大生の樺美智子さんが
亡くなりましたけれど、
今年の集団的自衛権抗議で
焼身自殺する人も
出ておりますし、
死者が出るあたりまで重なりますと、
非常に残念です。



本来、民主主義とは
お互いが本質を議論し合うこと
らしいです。


日本はまだまだ
そういったところまで
いっておりません。


議論するには
自分の考えがなければできません。


考えること、
それを言葉にして
伝えること。


過去の日本人にあった
(今もありますが、)
主体性無く、無責任では
できません。


別に国という単位でなく、
身近なことでもいいのです。


未来をどのようにしていくか、
という意識が少しでもあれば
そこがきっかけとなります。


議論し合うことが
国民に広がっていない、
というのは、
民主主義の本質が
広がっていない、
ということになります。


私も政治には
あまり興味の無かった
典型的な日本人でしたけれど、
(力の論理で
勝手に決まっていく政治には
無関心だったし、
あてにしていなかった)
本書と時代と
危機感に起こされて
考えるようになりました。


意識は人を変えるようです。


年末はどのように
なっているでしょうか。


国民の意識はどのように
変化しているでしょうか。


興味深いところです。


続く。



【参考・出典】
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第32回

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