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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第28回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1945-1989戦後編。

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【昭和史1926-1945】

日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】

【第15回】 【第16回】 【第17回】



【昭和史1945-1989戦後編】

【第18回】 【第19回】 【第20回】

【第21回】 【第22回】 【第23回】

【第24回】 【第25回】 【第26回】

【第27回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社です。


第10章
混迷する世相・さまざまな事件


講和会議が開催された
昭和26年(1951)9月4日、
全権大使・吉田茂首相が
短い演説をしたなかで
こう述べています。


「外交の権力を
もっていない国は
亡びるともいいますが、
この条約によって
国際社会に
戻ることになった日本は、
真に外交能力を
もつ国になりたい」


これは非常に意味のある言葉で、
日本は昭和8年(1933)、
「栄光ある孤立」
といって
国際連盟から脱退してから、
外交はほとんどないといって
いいくらいでした。


それがはじめて孤立から脱し、
世界の一員に加わったのです。


昭和8年以降の国際的孤立、
それに続く占領によって
日本の外交は、
どうもおんぶに抱っこと
言いますか、
世界の情勢と
あまり深く関係しない場で
考えられ続けてきた
気がしてなりません。


自前の情報をもたず、
自立的に判断したことが
ありません。



昭和27年
その年の大騒動として
印象的なのが
内灘(うちなだ)闘争でした。


石川県内灘村にあった
米軍の試射場で、
米軍が実弾を撃つことを
日本政府が承認したことが
発端です。


弾丸が海にどんどん
ぶち込まれますから、
漁業が大変な痛手を被るので
村民は猛反対します。


ついにムシロ旗を立てて
県庁に抗議に行ったことから
「内灘闘争」は
社会的大問題となり、
全国の反基地闘争の
先陣を切ったわけです。


内灘は昭和32年(1957)の
米軍撤収で終わりましたが、
政府対土地住民及び
その支援者の基地闘争は、
この後も全国各地で続きます。


当時の日本を振り返れば、
占領が終わって
なんとなしに
明るい気持ちになり、
大多数の人は、
至る所に残る傷痕は
見ないように、
というか
あまり本気になって考えず、
自分たちの生活を
維持するのが大変とばかりに
懸命に働いていたのが
実情じゃなかったでしょうか。


昭和28年(1953)
基地問題が
あちらこちらで表立った年でした。
しかしうんと皮肉っぽくいえば、
基地周辺の人たちにとっては
大変な問題ではあっても、
それ以外の人にとっては
どうだったか?


どうも無関心なところが
あるというか、
日本人はこれに本気で
取り組んだとは思えない
気がします。


それは、
政治に関して
選挙の投票結果を見れば
よくわかります。


そんな時代を語るのに
一番いい例じゃないかと思うのが、
この年に制作、封切られた
小津安二郎監督の映画
『東京物語』です。


広島県尾道に住む老夫婦が、
戦争が終わって
平和になり、
元気になうちに
東京にいる息子たちに
会いにいこうじゃないかと
上京してきます。


東京には町医者をしている長男坊、
美容院をやっている娘、
戦死した次男坊のお嫁さんがいて、
夫婦は順番に訪れるのですが、
食うのに一生懸命な息子も娘も、
せっせと働いて忙しく、
一応歓迎はしてくれるものの、
どこか喜ばないわけです。


ついに兄妹が相談し、
両親を熱海の温泉へと
送りだすのですが、
そこでは団体客が
夜通し大騒ぎして老夫婦は
寝てもいられない
とても静かに温泉を
たのしむ雰囲気じゃありませんので、
二人は一泊しただけで
東京に戻ってしまいます。


兄妹は
「もう返って来たの」
と参ったようす。


たしかに家も狭い、
子供たちもいて
大変なわけで、
結局は嫌な顔を
してしまうんですね。


そこで父親役の
笠智衆(りゅうちしゅう)が
こんなふうに言うんです。


「とうとう宿無しに
なってしもうた」


すると奥さん役の
東山千栄子が、
例ののんびりした調子で


「そうですねえ」


と答えます。


仕方なく二人は、
原節子さん演じる
次男のお嫁さんのところに
転がり込みますと、
彼女はやはり忙しく
働きながらも懸命に
二人の面倒を見るわけです。


無碍(むげ)なあしらいを
受けながら両親は、
愚痴もこぼさずに
息子たちに
「お前も忙しいじゃろうに」
とねぎらい
「こんなに散財かけて」
と感謝さえするのです。


この情景が、
あの時代の日本人の
全体的な気分に
合っているように
感じました。


狭い家に暮らしながら、
周囲をかまっている
ひまがないほど
皆が本当に
よく働いているようすが
出ていましたし、
さらにその両親の思いが、
当時の日本のお父さんお母さん、
おじいさんおばあさん、
つまりある意味で
戦争責任ある人たちの
共通の思いであった
気がするのです。


夫婦は旅の帰途、
大阪の三男夫婦の家に寄ります。
そこで二人が
しみじみ語り合うのは
なかなかいい場面でした。


父親が
「まあ、欲を言えば
きりがない。
われわれはいい方だと思うよ」
と言えば、
母親は
「いい方でさあ」
と受けます。
「よっぽどいい方でさあ。
幸せな方でさあ」
と言います。


二人が本気でそう思ったかは
知りません、
むしろ自らに言い聞かせるような、
なにか淋しさや哀しさが
漂っていて、
ともかく当時の日本が
よく描かれているなあと
思いました。


世界情勢としては
7月に朝鮮戦争の休戦協定。
少し前、3月にスターリンが
亡くなりました。


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昭和29年(1954)
当時の国会はさながら
”法案製造所”であって、
官僚によってつくられています。


法案は、
最初はでかいものが多くても、
そのうちだんだん細かいものに
なっていきます。


するとたとえば、
金儲けになる法案を
官僚がつくって
与党が通す、
それによって
大いに利益を得る業界があり、
その業界がニコニコと
与党に献金する、
おこぼれが官僚に流れる、
そして天下りなどの
余特にあずかる、
という流れ、
のちにいうところの
”輸送船団方式”
そのシステムがこの頃に
はじまりました。


この年の重要事件として
3月、ビキニ環礁で水爆実験をして
漁船・第五福竜丸が
まともに灰を浴び、
乗組員全員が原爆症になりました。


5月、日教組(日本教職員組合)と
教育委員会が対立して
分裂授業が行われ、
「旭丘中学事件」として
騒ぎになります。


6月、近江絹糸(おうみけんし)
ストライキ騒動です。
社長が許可がないと
結婚できなかったり、
宗教を強制されたり、
手紙を開封されたり
していたわけで、
実に人権の根本的な問題で
ストが行われました。


独立した日本は、
あっちを向いたりこっちを向いたり
より改革へ進もうとしたり
後戻りをしたりしながらも
とにかく皆がせっせと働きました。


それは明治維新後の日本と
よく似ているんです。


どういうかたちの国家をつくり、
どの方向に進んだらいいのか、
よくわからないまま
ガタガタと揉めるのです。


結論からいえば、
吉田ドクトリンと言われる、
「日本は通商国家ないし
貿易国家としてしか
生きられず、
軍備などは不要だ」
とう吉田茂首相の主張があります。


またその一方に、
鳩山一郎さんを中心に、
「何でもかんでも
おんぶに抱っこはいけない、
やはり憲法も変えて
再軍備して
堂々たる国家にすべきだ」
という主張が出てくるのです。


つまりこの二つの
政治路線の衝突です。


日本にとにかく
いろんな考えの人たちが
出てきて、
さまざまなことが
主張され行われ、
それでも皆が仲良くやって、
大いに働きました。


それはまあ面白く
活気のある時代では
ありました。



ここまで読んでみますと
日本が独立した後、
昭和26年から昭和29年の
ことが書かれています。


いろいろな問題や闘争が
ありながらも、
よく働いていたようです。


講和会議での演説


「外交の権力を
もっていない国は
亡びるともいいますが、
この条約によって
国際社会に
戻ることになった日本は、
真に外交能力を
もつ国になりたい」


と言ってから
どのくらいの年月が
経ちましたでしょうか。


突き刺さる言葉です。


日本は
世界から孤立して
戦争をすることに
なりました。


孤立することで
不安定になり
結果として、
攻撃をすることなります。


孤立させないこと、
これは大事なことです。


最近の話しであれば
カナダで起きた事件でも
その人は移民でありました。
移民が悪いのではなく、
移民の人たちが
社会的な孤立の状態になること
偏見があること
そのことが問題です。


社会的つながりを失った結果です。


日本でも
イスラム国へ向おうとした
大学生の例でも
就職ができなかったこと、
それは社会に必要とされていない、
と感じたことでしょうし、
自分の存在価値がなんなのか
わからなくなるでしょう。


日本社会とのつながりの可能性を
感じられなくなったとき、
つまり、絶望状態になったとき、
選択手段として
ひとつは自殺でしょうし、
ひとつは社会への攻撃です。


真面目の人ほど
完璧を求めますし、
選択肢が少なく、
0か100かしか
考えない傾向にあります。



孤立は
キーワードになりそうです。



人の中で
孤立が平気という人は
少数派です。


大抵の人は
なにかしらのつながりを
求めます。


それには
コミュニケーション力が
必要です。


日本の道徳が
どのような方向になるかは
わかりませんが、
コミュニケーション力を
つける教育は
必要でしょう。


それは孤立しにくくなり、
社会を生きる上で
基本的な能力で
社会に出ても求められます。


相手を知ることは
個性を尊重することや
偏見をなくすことにつながります。


聞くこと、
知ること、
考えること、
話すことなど、
人間が持っている
基本的な能力を
使えるようにすること、
それらを楽しみながら
身につけるような
仕組みが必要ではないでしょうか。


いじめや不登校の問題にも
効果は期待できそうな気がします。


基本的なことは
出来て当たり前と
思う傾向にありますが、
その基本的なことを
当たり前のように出来ること、
これはすごく大変なことです。



孤立という共通はありそうですが、
孤立という視点から探っていくと
行き止まりになりそうな
気がしています。
気のせいかもしれませんけれど。


続く。



【参考・出典】
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第29回

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