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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第27回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1945-1989戦後編。

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【昭和史1926-1945】

日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】

【第15回】 【第16回】 【第17回】



【昭和史1945-1989戦後編】

【第18回】 【第19回】 【第20回】

【第21回】 【第22回】 【第23回】

【第24回】 【第25回】 【第26回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社です。


第9章
新しい独立国日本への船出


今回は
サンフランシスコ講和条約です。


昭和20年(1945)9月2日に
ミズーリ号上で行ったのは
あくまで日本が降伏することを
証明する停戦の調印式でした。


このあとに、
戦争の当事者が集まって、
これから仲良く
平和にやろうと会議を
開くわけです。


それによって
賠償金、領土などの
問題が決められます。


したがって、
講和会議を開くまでは
日本は敗戦国のまま、
つまりポツダム宣言を受諾し
軍事的に降伏して
連合国の監視下に
おかれている国でしか
ないわけです。


講和会議で当事者同士が
平和条約を結ぶことによって、
日本ははじめて
国際的に認知され、
独立国として
再出発することができるのです。


日本政府は講和会議の準備を
進めていました。
そこで一番に出てくる問題は、
戦後日本は新憲法を制定し、
軍備を一切もたない
平和国家を国是とする
宣言をしましたから、
講和会議を経て
占領軍が立ち去った後、
国はいったい誰が
守ってくれるのか
ということでした。


昭和22年(1947)9月12日、
ちょうど社会党の片山首相の頃です。
外交官出身の
芦田均(あしだひとし)外相が
中心となって
政府が考える
「講和後の日本」
のプランを作り、
青写真をアメリカ軍に
それとなく見せることにしました。


その内容は、
もし冷戦下の米ソ関係が
最悪にならず
やがて落ち着いた場合は、
新しくできた国際連合に
すべての安全保障を委ねて
防衛その他を考えたい、
しかし冷戦状態が
どんどん厳しく
なっていった場合には、
アメリカ軍が駐留し
日本を守ることを
平和条約に明記する
というものでした。


ところが、そんな前例のない、
アメリカが日本を
偽植民地にするような平和条約は、
他の国から文句が
出るかもしれません。


そこで日本政府としては、
日米の特別な合意のもと、
要するに話し合いによって
日本の防衛を
アメリカにお願いする、
というかたちにして、
その軍の駐留や基地の問題の
青写真を秘密文書として
見せることにしたわけです。


この第二案が
日米安保条約の原型となります。


昭和25年4月
この時は吉田内閣の時代です。
池田隼人大蔵大臣を
首相の密使として渡米させています。


これは表向き、
ドッジ・ラインにともなう
財政経済問題を協議するため、
つまり財政経済問題を
協議するため、
つまり経済政策の1つとしながら、
じつは密かに池田さんに
与えられた使命は
講和をどういうかたちでやるか
ということの瀬踏みでした。


その内容は
一、全面講和でなく、多数講和の方式で
  講和条約を結びたい。
二、条約締結後、米軍の日本駐留を認める。
三、必要ならば、日本政府から
  何らかのかたちで駐留の依頼を
  申し出る方法を研究してもよい。
  この点は憲法違反に
  ならないように留意する。


結果的には
日米安保条約の基礎と
思われるものになったのです。


こういうかたちで講和について
工作が進められていたのですが、
その時、朝鮮戦争が起きます。


経済をどうするかという
大事な議論をあまりしなくて
いい状態になり、
内閣の仕事は
あとは講和条約だけです。


アメリカは
とにかく日本を味方にしたい、
と思っていたところ
ここでもまさに
「神風」が吹いたのです。


朝鮮戦争がはじまる直前の
昭和25年5月18日、
トルーマンは
わざわざ野党の共和党から
大物ジョン・フォスター・ダレス
を引っ張ってきて
極東問題担当の
国務省顧問に任命し、
かつ特使として日本に派遣します。


ダレスは昭和25年6月に
はじめて日本を訪れて以来、
翌昭和26年末まで
約1年半の間に
実に4回来日し、
吉田首相と講和条約に関する
下交渉を十分に行いました。


昭和25年7月8日
マッカーサーから吉田さん宛てに
手紙をきます。
そのなかで、
日本に警察予備隊をつくるように
言ってきているのです。


日本政府は驚いて、
すぐに岡崎勝男官房長官が
ホイットニーのもとへとんで行き、
「これはいったい何を意味するのか」
と聞くと、
もちろん内緒ではあるが、
単なる警察の増員ではなく、
ゆくゆくは重火器や戦車を持った
「軍隊の卵」を
つくってほしいのだと判明します。


75,000人はだいたい4個師団分の人数で、
これは朝鮮戦争がはじまった時に
日本本土にいた
米陸軍兵力数そのものに相当します。
戦争勃発で全員が朝鮮半島に行き、
空っぽになった本土の真空状態を
「軍隊の卵」で
埋めてほしいという意味だったのです。


日本政府としては
憲法違反じゃないかと思いながらも、
命令ですからやらなくては
なりません。


こうして警察予備隊の組織化が
完了したのは
昭和25年12月29日でした。
当然のことながら、
あれは軍隊ではないか、
警察にしては
武器が違うではないか、
という声が上がります。


そこで翌昭和26年(1951)3月6日、
参議院予算委員会で
問い詰められて
吉田首相が答えたのが、


「自衛のための戦力は合憲である」


という発言で、
これが後の自衛隊合憲論の
スタートになりました。


そうこうするうちに、
いよいよ日本は講和条約を
結ぶことになりました。


昭和26年(1951)9月8日
サンフランシスコで結ばれました。


かたちとしては
親米的な、
アメリカの傘下に入った、
同時に重装備の軍事力を持たない
「通商国家」
として国際復帰することが
決定づけられられたのです。


講和条約と同時に
日米安全保障条約が結ばれます。


基地問題、沖縄問題は
曖昧なままで、
どこに基地をおくかを
決めておらず、
軍事占領している沖縄は
アメリカの領土なのか、
アメリカが日本政府から借りるのか、
はっきりしなかったのです。
これからずっと交渉を
続けていかねば
ならないことになります。


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ここまで読んでみますと、
サンフランシスコ講和条約と
安保条約、自衛隊のことが
書かれています。


憲法で平和国家として
軍隊は持たない、
ということになりましたので
冷戦状態も続きますし
アメリカにそのまま残ってもらい
日本を守ってもらおう、
ということにしたようです。


軍隊は持たないことに
しておきながら
警察予備隊、のちの自衛隊を
作ってという指示は
なんともマッカーサーも
都合が良すぎるような
気もしますけれど、
これにより、
自衛する手段を
手にするわけです。


警察の延長ということや
自衛隊合憲論は
ちょっと強引のような
気もしますけれど
平和憲法という制約が
あるおかげで
武力排除の対象(攻撃対象)
とはならず
今日にいたっているかと
思います。


こういった
日本独自の特性をいかした
平和構築のありかたを
模索するべきです。
なぜ、いままで日本は
アメリカ同盟国でありながら
攻撃の対象とならずに済んだのか、
そのあたりを考えたうえで
アメリカや他国にはできない
貢献のしかたがあるはずです。


例えるならば、
アメリカが火を使うなら
日本は水を使う。
壊すなら直す。
そうすることで
バランスが取れるのでは
ないでしょうか。



日本は講和条約を経て
通商国家としてスタートします。


現在の日本経済で
気がついたことや
感じたことを書いてみます。


これは日本に限らず、
世界経済にも関係するところが
あるかもしれません。


大きな流れを見ておりますと
だいたい2つの流れがありそうです。


ひとつは
本当に必要なのはなんなのか、
という取捨選択です。


今までは
右肩上がりが前程の
経済成長の中で
消費したり、物を作ったり
仕組みがあったり、
建物を建てたりしました。


けれど、
爆発的な経済成長は
永遠に続くことではない
という現実を経験し、
人口減少も目に見える形で
数字で示されて
今までのやり方では
うまくいかなくなる、
ということを
みんなが感じ始めた
と思います。


そんな中で
本当に必要なものは
なんなのか、
本当に大切なものは
なんなのか、
ということを
考え始め
その必要なことを
これから維持継続していく中で
どのような考え方
価値観が必要で
それにはどういった仕組みが
必要なのか、
すべて手にすること
維持していくことは
できないので
どれかを捨てて
必要なものを集め
再構築する
ということだと思います。


物があればあるほど
管理しなければならず、
時間もお金も意識も
分散されます。


捨てること、
作らないことも
手段として
選ばなければならず、
とりあえず、作るという
発想からは
卒業しなければ
ならないのかもしれません。


ですから、昭和時代の
箱物を作っていたような
考え方は今の時代に合いません。
維持管理修繕のコストがかかり、
未来の子どもたちの負担となります。
そのあたりもしっかりと考え
本当に必要かどうかを
判断しなければなりません。


世界的イベントのたびに
施設をつくっても
その後の運営に困ることは
よくあることです。
大都市ならばまだ活用の仕方は
ありそうな気もしますけれど
地方の場合はよく考えなければ
なりません。


一部の人間の自己満足で
未来の子どもに負担を
押し付けるような
無責任なやり方は
そろそろやめなければ
ならないでしょう。



本当に必要なものはなんなのか、
という流れとは別に
イノベーションなどにも
代表されるような
新しい価値や考えや物が
求められる動きです。


これも心理の底辺にあるのは
今までのやり方では
進まなくなってしまって
新しいものが求められている
ということです。


今までのやり方の土台の上で
積み上げていったけれど
それも限界に来ていて
新たな土台が
求められているのかも
しれません。


新しい、といっても
私から見れば
過去のものの応用だったり、
今までとは違った組み合わせだったり
するもので、
ゼロからまったく新しいものが
生まれてくることは
人間には基本的には出来ないと
思っていいでしょう。
できたとしても
それは偶然性が生み出したものか
人間以外の世界で
発見するか、
ということくらいです。


どちらにしろ、
継続していれば
その分だけ
そういったものと
出合う確立は高くなるでしょう。



本当に必要なものを探す方向性と
今までにない新しいものを
生み出す方向性。


別の言い方をすれば
デザイン系と表現系
という言い方ができます。


本当に必要なものを探すのが
デザイン系。


今までにない新しいものを
生み出すのは
表現系。


デザインと表現というのは
興味のない人から見れば
どちらも似たようなものと
思うかもしれませんが、
まったく違う存在で
真逆です。


デザインとは
相手のためにすること。


表現とは
自分のためにすること。


まったく違うのです。



デザインとは
物だけでなく、
仕組みなどにも使われます。


よくデザインされたものは
意識のかたまりです。


そういったものには
すべてに意味があって
なぜそうなったのか、
例えば、物のデザイン
であっても
なぜその形なのか
その長さ、曲線、色など
質問されれば
その理由について答えられます。


デザインは
自分のためではなく、
相手のために行います。


そして、
いかに相手や対象に
近づいて
本質、本当に必要なことを
見つけ、
つながり方を模索します。



表現というのは
本来、経済価値がないと
言われています。


表現とは
自分のためにすることなので
利便性がないからだと
思います。


けれど、
経済価値以外のものは
あるわけです。
その表現から受ける
心理的な価値があります。


その心理的価値は
経済活動では
埋めることの
できないものなので
お金を出して買うわけです。


表現には経済価値がないけれど
経済価値以外の価値を
得るために値段が付く、
という興味深い仕組みです。


表現のまわりで
経済活動が起こります。



発明や発見だって
それがどういった
使われ方をするか
まではわかりません。


表現系に属するものは
表現したことにより
どういった影響を及ぼすか
というのはわかりません。


表現というのは
影響を意識してしまうと
新しいものは
生まれにくくなります。



表現ついでですが、
批判は表現ですが、
相手を傷つけることを
前程とした
誹謗中傷悪口は
表現とは言いません。
対象を傷つけることが
目的ですと
これは言葉の暴力となります。



最近、
マーケティングが必要かどうか
みたいな話を見かけますが、
必要なのは
デザイン系に属するものであり、
表現系は必要はない、
ということになるのでは
ないでしょうか。



最近のつながり方の傾向として


ゆるくつながる


というのがあります。


ゆるくつながるけれど、
お互いの信用性は担保したい
という動きです。


強固が結束みたいな
つながりかたは
場合によっては
義務的になりますし、
自由を求め
つながらないと
助け合うのには
不都合だということで
必要な時に
無理しない範囲で
つながる
ということのようです。


柔軟性をもった
つながり方です。


物質でも
柔軟性のない強固なものは
ある程度は
耐えられますけれど、
ある一定以上の圧力がかかると
壊れます。


柔軟性があるほうが
結果として耐えられるように
組織やグループの考え方も
柔軟さが求められるようです。



最近では
幸せを数値化する試みが
行われておりますが、


今の時代の
幸せって何だ、


ということを
探し始めているようです。


幸せを探すことは
昔にもありました。


産業革命が起こった
18世紀から19世紀。


その後、
哲学の世界で
幸福論というものが
登場します。
19世紀末から20世紀に
かけてです。


産業革命によって
自由を手にしましたけれど
その後、立ち止まって
幸せとはなにか、
という流れができます。


現在は、
経済の成長が一段落して
立ち止まる機会を得て
今のやり方では
世の中うまく
いかないのではないか、
ということで
幸せとはなにか、
という流れになっていると
思います。


どちらも、
向う先の目標がゆらいで
どこに向ったらいいか
わからなくなったから
なのかもしれません。


そこで
それぞれの時代で
大切なものはなんなのか、
というのを模索しはじめ
議論がでます。


そして、別の軸では
新しいものが求められます。



一度、整理してみる時代に
入っているということでしょう。


PDCAサイクルに当てはめるなら
Check(評価)
Act(改善)
のあたりでしょうか。


検証と反省をし、
本質を見つめ、
改善していく時期なのかもしれません。


続く。



【参考・出典】
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第28回

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