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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第23回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1945-1989戦後編。

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【昭和史1926-1945】

日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

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【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

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【第15回】 【第16回】 【第17回】



【昭和史1945-1989戦後編】

【第18回】 【第19回】 【第20回】

【第21回】 【第22回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社です。


第5章
「自分は象徴でいい」
と第二の聖断


昭和21年(1946)1月
マッカーサーは
アイゼンハワー参謀総長に宛てて、
天皇に戦争責任はないと
伝える手紙を書きました。


これにより
「天皇の戦争責任を追求しない」
方針はほぼ確定しました。


それをまったく知らなかった日本は、
依然として、
天皇陛下の身柄の安全をめぐって
戦々恐々としていました。


昭和21年2月1日
毎日新聞が一大スクープを
報じました。
松本委員会が作った
「乙案」の掲載でした。


その「乙案」ですが、
松本委員会が作成した
甲乙二案のうち、
GHQに提出しようと考えていたのは
「甲案」で、
こちらは明治憲法そのままです。


しかしそれよりも
ずっと進んでいるはずの
「乙案」でさえ、
天皇主権など明治憲法の流れを
そのまま汲んでいる内容で、
これを読んだ
マッカーサーをはじめとする
GHQの改革派の人たちは
「これではわれわれが
満足するような、
改革を盛り込んだ
まともな憲法案が
出てくるはずはない」
と判断せざるを得なくなりました。


考えてみれば
「乙案」でこれです。
もし「甲案」が
スクープされていたとしたら、
どうなっていたことか。


GHQでもとりわけ改革派の
ホイットニー准将は
一気に考え方を硬化させ、
ただちにマッカーサー最高司令官に
進言します。


「どうも反動的グループが
憲法改正の主導権を
握っているようです。
われわれがとうてい
認めることができないような
改正案を彼らが決定してくるのは
目に見えています。
その前に、
こちらからもっときちっとした指針、
あるべき憲法の方向性を
与えるほうが時間の節約になります。
日本の出してきた
古臭い、昔通りの憲法を
ひっくり返して一から直すのでは、
時間ばかりかかってしまいます」


昭和21年2月3日
マッカーサーは
ホイットニーを部屋に呼び、
民政局で憲法を起草するよう伝え、
その際には基本的な
3つの事を守ってほしい、
と自らの考えを述べます。


一、天皇は国の元首の地位にある。
二、国権の発動たる戦争は、廃止する。
三、日本の封建制度は廃止される。


昭和21年2月4日
ホイットニーは
朝鮮部担当を外した民政局の全員、
25人を集めて新憲法草案を
作り始めます。


2月5日からはじまった作業は
2月12日の会合まで終了しました。
この1週間はすべて密室です。


それぞれが
天皇制、戦争放棄、国民の権利などの
分野に責任者を指名して作りました。
一人として憲法の専門家は
いません。
世界各国の憲法などを
猛勉強するのです。


IMGP1407.jpg


昭和21年2月13日
外務大臣官邸に午前10時、
日本側は吉田茂外相、
松本国務大臣、
終戦連絡中央事務局次長 白州次郎、
外務省の通訳 長谷川元吉
の4人が集まります。


アメリカ側は
ホイットニー准将、
ケーディス大佐、
ハッシィ中佐、
ラウエル中佐の4人です。


そこでいきなり
ホイットニーが長々と演説を
ぶったのです。
内容は、
日本側に残っている記録と
アメリカのそれとでは
少し違っています。


アメリカ側の記録
『ラウエル文書』では、


「御存知かどうかわかりませんが、
最高司令官は、
天皇を戦犯として
取り調べるべきだという
他国からの圧力から、
天皇を守ろうという決意を
固く保持しています。
これまで最高司令官は、
天皇を護ってまいりました。
それは彼が、
そうすることが
正義に合すると
考えているからであり、
今後も力の及ぶ限り
そうするでありましょう。
しかし皆さん、
最高司令官といえども、
万能ではありません。
けれども最高司令官は、
この新しい憲法の諸規定が
受け容れられるならば、
実際問題として、
天皇は安泰になると考えます。
さらに最高司令官は、
これを受け容れることによって、
日本が連合国の管理から
自由になる日が
ずっと早くなるだろうと考え、
また日本国民のために
連合国が要求している
基本的自由が、
日本国民に与えられることに
なると考えております」


まさか相手から
憲法草案が出てくるとは
思っていなかった
日本側4人は、
この演説を呆然と聞き、
仰天しました。
その様子がアメリカ側の
記録に残っています。


「はっきりと、
茫然たる表情を示した。
白州氏は坐り直して
姿勢を正して、
松本博士は大きな息をつき、
特に吉田氏の顔は、
驚愕と憂慮の色を示していた」


わずか20分ぐらいですが、
読みながら4人が検討していると、
天皇は
"国家のシンボル"
と書いてある。
この"国家のシンボル"とは何ぞや、
というわけで、
松本国務大臣は
「こんな文学的表現では
法律にならん。
それに”主権在民”とは何だ、
日本の国はもともと
君民共治あるいは
君臣一如(くんしんいちにょ)といって、
天皇陛下も国民もひとつのものである。
それを離して
主権を国民に与えるというのは、
日本建国の精神にも外れている、
根本的に日本の精神とは
離れている」
などぶつぶつ言っていました。


ようやく吉田外相が中心となって、
GHQ草案は
「日本の建国以来の習慣や
伝統とはまったくそぐわず、
余りにも非日本的なものと思われる」
というふうに反論すると、
ホイットニーは厳然として
言い放ちました。


「最高司令官は
これ以外の案はいかなるものも
考慮に入れないと断言している。
ただし、このアメリカ側の
草案の精神に反せぬかぎりの
些細な修正には、
喜んで応ずるであろう
とも言っている。
この草案を支持する用意が、
日本政府にないというならば、
マッカーサー元帥は
諸君の頭の上を越えて
直接に日本国民に訴えるであろう」
(『ニッポン日記』)


昭和21年2月19日午前10時
閣議でGHQの憲法草案に関する
詳しい報告をしました。


これを聞いた幣原総理大臣が
「GHQ案は受諾できないように思う」
と言うと、次から次へと
閣僚たちが賛同の意を述べました。


昭和21年2月21日
そこで、幣原首相が
直接マッカーサー元帥に
会いに行きました。
けれど日本の要求は通らず、
48時間以内に返事を求めたようです。


昭和21年2月22日
閣議でもめましたが
最後に幣原さんが閣僚に言いました。


「主権在民と戦争放棄は、
総合指令部の強い要求です。
憲法改正はこれにそって
立案するよりほかない。
それ以外はなお交渉を重ね、
こちらの意向を活かすよう努める。
そうご了承を賜りたい」


幣原さんはもともと
「受諾したくない」
とかなり強く主張していたのですが、
マッカーサーとの会談後に、
こう語っていたそうです。


「天皇制護持のためには、
憲法草案(GHQ案)をのんで、
天皇をシンボルにすることと、
戦争放棄に同意したのである」


幣原さんは
いったん閣議を中止して
天皇のもとに行き、
報告をしています。


首相が経緯とGHQ草案の内容、
極端に言えば
「天皇は象徴」
「主権在民」
「戦争放棄」
の三原則を伝えると、
天皇は


「最も徹底的な改革をするがよい。
たとえ天皇自身から
政治的機能のすべてを
剥奪するほどのものであっても、
全面的に支持する」


「自分は象徴でいいと思う」


2回目の「聖断」です。
これによって、
憲法改正が動き出すのです。
幣原さんは退室し、
閣議に戻って
天皇陛下の言葉を
閣僚に伝えました。
もはや、反対する人は
一人もなく、
さすがの松本国務大臣も
「止むを得ません」
と納得したそうです。


幣原内閣はこの後まもなく退陣し、
昭和21年5月に
吉田茂が首相に就任します。


議会で激論が交わされ、
GHQ草案が少しずつ手直しされ、
しかし大原則としての
「国民主権」
「象徴天皇」
「戦争放棄」
はしっかりと守りながら、
憲法は審議決定されていきました。
やがて議会で全条項が可決され、
昭和21年(1946)11月3日
「日本国憲法」
が国民に交付され、
翌年5月3日からの施行が
決まりました。



ここまで読んでみますと
現在の日本国憲法が
できるまでと
天皇陛下が
象徴天皇の決断をしたことが
書かれていて
憲法をアメリカから
押し付けられたと
よく言われる部分です。


松本委員会が作成していた
甲乙案は
ほとんど明治憲法の流れを
多く含んだものだったようで、
ポツダム宣言は
まったく頭には
なかったようです。
GHQは怒ってしまいます。


そこで
象徴天皇、戦争放棄、国民主権を
入れた憲法草案を
提示されるわけです。


話の流れを見ていますと、
GHQ側の圧力は感じます。


ホイットニー准将が
憲法草案を支持しないのならば
直接、日本国民に訴える
と言っていますが、
実際、そのようなことをしたら
どうなったでしょうか。


著者の半藤さんは
歓迎したと思う、ということを
書かれています。


「当時の日本国民は
戦争の悲惨を痛感していましたし、
軍部の横暴にこりごり
していましたから、
平和や民主主義や自由といった、
占領軍が示してきた
新しい価値観を貴重なものと
感じる人が多かったと思うんです。
悲劇はもう一度繰り返したくない、
戦争は本当にこりごりというのが
現実でした」


「また簡単に付け加えておきますが、
天皇が地方巡幸をスタートさせました。
これは天皇が、
国民にも親しく会い、
戦争で苦労をかけたことを
ひとことお詫びしたい、
という気持ちから
自ら言い出して、
日本中を歩いたのです」


「ともかく、天皇が親しく国民の中に
入ってゆく時期と重なって、
天皇の安泰が確定したとかわかれば
国民の気持ちも
相当違ったんじゃないでしょうか。
もしGHQがかなりの自信をもって
この草案を出してきていれば、
なかなか面白いことが
起きたかもしれません」


と書かれております。


昭和史を読んでおりますと、
憲法改正に手間取ったのは
天皇陛下の立場をどうするのか、
その部分が
問題点だったようです。


天皇陛下を大事に思う側としては
権力を失うことは
やはり、強い抵抗が
あったのでしょう。


けれど、天皇自身が
そのことを了承することで
解決しました。


戦争放棄については
議論されているのでしょうけれど、
天皇のことが
最重要テーマで
戦争放棄については
本書にはあまり書かれていません。


戦争をしかけた側ですし、
それでいろいろと
迷惑を掛けていますので、
その事に関して
言える立場ではありません。


幣原さんも
戦争放棄、軍を持たないことは
承知しているようで、
そのことを明文化するしないの
攻防だったわけですが、
通らなかったようです。


明文化したくないのは
やはり、あとから
変えられないからでしょうか。


軍の指揮権は
本来、天皇が持っていました。
もしかしたら、
天皇が力を失うこと。
そのことに
抵抗があったのかも
しれません。


憲法改正の
GHQと日本との
攻防というのは、
天皇の権限放棄を
明文化することへの
抵抗だったのかもしれません。


それだけ、
日本人にとって
天皇とは特別の存在である
ということです。


松本さんは、
「君民共治あるいは
君臣一如(くんしんいちにょ)といって、
天皇陛下も国民もひとつのものである」


と言われています。


天皇と国民はひとつ。


ということは、
天皇と国民は一心同体のようなもので
全ての意思決定は天皇であり、
体の一部である国民は
指示に従うような関係性、
ということなのでしょうか。


例えば、
ポツダム宣言受諾後、
天皇陛下が武器を捨てよと言えば、
ほとんどがそれに従うのですから
天皇と国民の関係性が
よく表れています。



憲法改正には
いろいろとあったようですが、
全体的に見ますと
GHQからポツダム宣言の内容の
指摘を受けて
日本側がそれに沿った
憲法を作成した
ということです。


著者の半藤さんは
ポツダム宣言のことが
頭にないから
議論は空転していた、
と言っています。


当時の日本政府は
天皇陛下のことしか
考えてなかったようです。


GHQから指摘を受ける前に
近衛さんたちが作ったような
国民主権を基本として
憲法を提示していたならば
違った形になったのでしょうか。


どちらにせよ、
国民主権は
ポツダム宣言受託で
確定していることですから、
似たような形にはなったのでは
ないでしょうか。



平成25年12月18日
天皇陛下の記者会見


「80年の道のりを振り返って,特に印象に残っている出来事という質問ですが,やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており,その翌年の12月8日から,中国のほかに新たに米国,英国,オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が,若くして命を失ったことを思うと,本当に痛ましい限りです。


戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経,今日,日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても,人と人との絆きずなを大切にし,冷静に事に対処し,復興に向かって尽力する人々が育っていることを,本当に心強く思っています。


傘寿を迎える私が,これまでに日本を支え,今も各地で様々に我が国の向上,発展に尽くしている人々に日々感謝の気持ちを持って過ごせることを幸せなことと思っています。既に80年の人生を歩み,これからの歩みという問いにやや戸惑っていますが,年齢による制約を受け入れつつ,できる限り役割を果たしていきたいと思っています。


80年にわたる私の人生には,昭和天皇を始めとし,多くの人々とのつながりや出会いがあり,直接間接に,様々な教えを受けました。宮内庁,皇宮警察という組織の世話にもなり,大勢の誠意ある人々がこれまで支えてくれたことに感謝しています。


天皇という立場にあることは,孤独とも思えるものですが,私は結婚により,私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え,これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。


これからも日々国民の幸せを祈りつつ,努めていきたいと思います。」



このお言葉で
日本国憲法に触れられております。


日本国憲法 第九十九条


「天皇又は摂政及び
国務大臣、国会議員、
裁判官その他の公務員は、
この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」


とありますように、
天皇陛下も国会議員も裁判官も公務員も
現憲法の尊重擁護義務を
負っています。


ですから、天皇陛下が
現憲法を尊重することは
問題ではありません。


むしろ、尊重擁護しなければなりません。


天皇をはじめ、
国務大臣、国会議員、
裁判官その他の公務員の
尊重擁護義務を負っている立場の人が、
現憲法の意図と反する行為、
発言、誘導など、
尊重擁護できなければ
憲法違反のおそれがでてきます。


現憲法は国民主権であることを
肝に銘じていただきたと思います。


天皇陛下のお言葉で
「当時の知日派の米国人の
協力も忘れては
ならないことと思います。」
というところは
マッカーサー元帥のことを
言われているのでしょうか。


確かに、マッカーサーが
調整してくれなかったら
大変なことに
なっていたかもしれません。


昭和天皇の立場はどうであったか。


それは言いかえると
日本が玉砕覚悟の
暴動を起こし、
戦後復興が大幅に遅れることに
なります。


そして、
憲法の内容も
変わっていたでしょう。



日本国憲法は
権力者を縛る一面も持っています。
それは憲法の前文にも
書かれていますが、


「~政府の行為によつて
再び戦争の惨禍が
起ることのないやうに
することを決意し~」


とあり、
二度と政府や軍部の暴走によって
戦争をしないようにする憲法
という一面を持っていて、
公務をする側に
ルールを課しているのです。


日本国憲法は
法律の文章よりも
比較的読みやすいように
書かれていますので
一度、読まれることを
おすすめいたします。


続く。



【参考・出典】
昭和史1945-1989戦後編
半藤一利
平凡社



平成25年12月18日
天皇陛下の記者会見
(リンク:宮内庁-おことば・記者会見)



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第24回

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