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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第16回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

IMGP1224.jpg


日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】

【第15回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第15章
「堪ヘ難キヲ堪ヘ、
忍ビ難キヲ忍ビ……」


昭和20年(1945)8月6日


広島の朝は非常に蒸し暑く、
雲ひとつない快晴でした。


7時9分に警戒警報。
上空に3機のB29の影が
認められたからです。


7時31分警報解除。
そのまま去っていきます。



8時15分
B29エノラ・ゲイ号
原子爆弾投下。


爆弾は地上から約570メートル、
ほとんど広島市の真ん中で
爆発しました。


直径150メートルの巨大な火の玉が
広島上空を覆ったのです。


爆心地から半径約500メートル以内に
人々や住宅は
3000~4000度の高熱で
焼き尽くされました。


昭和21年11月時点で
死者78,150人
行方不明13,983人
負傷者37,425人


その後、原爆症で亡くなった方も
含めますと
何十万人の方が亡くなったと推測され
現在でも不明です。



広島に原爆投下を知ったスターリンは
対日参戦を早めよというので
7日午後4時30分
日本時間午後10時30分に


「8月9日、満州の国境を突破すべし」


と攻撃開始の極秘命令を発しました。


またスターリンは
クレムリンに原子物理学者5人を呼び、
「費用はいくらかかってもかまわない、
できるだけ早くアメリカに
追いつかなくてはならない、
全力を上げてやりたまえ」
と厳命し、
粛清の鬼と呼ばれる
秘密警察長官べリアを
原爆製造研究所の総指揮官に
命じました。


こうして米ソの核兵器競争が
はじまりました。


著者の半藤さんは


「どうも戦争の熱狂は
人間を愚劣かつ無責任に
仕立てあげるようです。
とてつもない兵器を、
それも膨大な資金と労力をかけて
つくったのだから、
使わないのはおかしいじゃないか、
と軍人のみならず政治家も
考えていたようです」


と書いています。



翌日、トルーマンの声明。


「われわれは20億ドルを投じて
歴史的な賭けを行ない、
そして勝ったのである……
6日、広島に投下した爆弾は
戦争に革命的な変化を与える
原子爆弾であり、
日本が降伏に応じない限り、
さらにほかの都市にも投下する」


日本のトップの人たちは、
ともかく1日も早く戦争を
終結しなければならないという
焦りを感じました。


昭和20年8月8日
天皇は木戸内大臣を通して言います。


「このような武器が
使われるようになっては、
もうこれ以上、
戦争を続けることはできない。
不可能である。
有利な条件を得ようとして
大切な時期を失してはならぬ。
なるべく速やかに
戦争を終結するよう努力せよ。
このことを鈴木首相にも伝えよ」


鈴木さんは
「ここまでくれば、
ソ連仲介などはすっ飛ばしても
戦争終結の道を探ろう」
と、さっそく最高戦争指導会議を
開こうとします。
ところが急なことですから、
いろいろと対策に追われている
軍人たちは
とうてい出席できかねるというので、
9日朝に延期することになりました。


昭和20年8月9日
ソ連が満州の国境線を
突き破って侵入。
前日の晩、
モスクワではモロトフ外相が
佐藤尚武駐ソ大使を呼びだし、
一応は宣戦布告をつきつけています。
中立条約は有効であり、
仲介をお願いしている国からの、
まさかと思うような攻撃でした。


午前10時30分最高戦争指導会議
鈴木首相は


「広島の原爆といい、
ソ連の参戦といい、
これ以上の戦争継続は
不可能であると思います。
ポツダム宣言を受託し、
戦争を終結させるほかない。
ついては各員のご意見を
うけたまわりたい」


こうしてはっきり
「戦争を終結させなくてはならない」
と首相が軍部の前で
明言したのです。
会議は重い沈黙で
誰もしゃべらなく
なってしまいました。


米内海相が口火を切りました。


「黙っていてもわかないではないか。
どしどし意見を述べたらどうだ。
もしポツダム宣言受諾
ということになれば、
無条件で鵜呑みにするか、
それともこちらから希望条件を
提示するか、
それを議論しなければならぬと思う」


ポツダム宣言には、
日本の降伏の条件が
細々と書かれています。
結論のところをかいつまんで
申し上げます。


世界征服の挙にでた
権力および勢力の永久除去。
日本本土の軍事占領。
本州、北海道、九州および四国のほか
領土没収。
外地の日本軍隊の完全撤収。
戦争犯罪人の処罰と
民主主義的傾向の復活強化。
巨大産業不許可(財閥解体)。
連合軍の撤収は平和的な、
かつ責任ある政府ができあがった時、
というものでした。


一番問題となったのは最初の
「世界征服の挙にでた権力および勢力」
というところです。
これがイコール天皇制ということでは
あるまいか、という根本的な疑問であり、
懸念なのです。
これが最高戦争指導会議での
論議の最大のテーマとなったわけです。


会議は俄然、紛糾しはじめました。
天皇制が危機にさらされている。
国体が破壊されるかもしれない。
天皇陛下の身柄が
非常に危険なことになる、
というわけで、
東郷茂徳外務大臣は、
希望条件をつけるとすれば
たった1つ、
「天皇の国法上の地位を変更しない」
ということ、
つまり天皇制を
護持することだけを条件に
ポツダム宣言を
受諾しようと提案しました。
米内海相が同意しました。


すると、
阿南さん、梅津さん、豊田さんの
軍部側3人が
「それだけでは足りない」
と言い、
天皇制を守り抜くためにも、


2、占領は小範囲で小兵力で
短期間であること
3、武装解除と
4、戦犯の処置は
日本人の手に任せること


という合計4つの条件を
つけることを主張します。


会議は紛糾します。



とその会議の最中に
第2の原子爆弾が
長崎に投下されたことが
伝わるのです。


B29のボックス・カー号は
当初、予定していた小倉市街が
雲に覆われて目視できず、
上空旋回を繰り返したものの、
晴れる見込みがないので
目標を長崎に変更、
やはり雲ってはいましたが、
山の向こうに
雲の切れ間を見つけ、


昭和20年8月9日午前11時2分


原爆を投下しました。


これも同年の11月時点で


死者75,000人


という発表でした。


午後10時30分
結論が出ず、いったん休憩します。


そこで鈴木首相は、
会議を何回開こうが
結論が出ない、
ならば内閣不一致の議論のまま
天皇陛下に持ち出して
「聖断」
を仰ごう、と考えたのです。


ですが、御前会議を開くには
法的に参謀総長と軍令部総長の承認、
この場合は署名の意味で
「花押」が必要です。


ところが
あらかじめ期していたとは
思えないのですが、
その9日の朝、
最高戦争指導会議に入る前に、
鈴木首相の指示を受けて
書記官長の迫水久恒が、
参謀総長と軍令部総長の花押を
もらっておいたのです。
(花押:署名の代わりに使用される
記号・符号)


「まことに申し訳ないが、
いざという時に間に合わないと
いけませんから、
一応、この書類に花押を
いただいておきたい」


「会議を開く時は、
今まで通り、
手続きを守って
了解を得ますから」


と言ったようです。


昭和20年8月9日午後11時50分
最高戦争指導会議の
メンバー6人全員のほか、
枢密院議長平沼騏一郎、
陸海軍の軍務局長、
迫水書記官長が陪席して、
御前会議が開かれました。


15坪ほどの
非常に狭い地下防空壕に
机を置いて、
正規の御前会議のスタイルで
行われました。


そこで鈴木首相は
それまでのいきさつを奏上し、


「結論が出なかったので
天皇のご判断を仰ぎたい」


と言います。


ふつう御前会議では
天皇は発言しないことに
なっています。
天皇は、
そのしきたりを破り


「それなら
私の意見を言おう」


と素直に応じ、
静かに話しました。


「私は外務大臣の意見に
同意である」


つまり1条件でいい
というわけです。
さらに天皇は
腹の底から
声を絞り出すようにして
説明しました。


「空襲は激化しており、
これ以上国民を
塗炭の苦しみに陥れ、
文化を破壊し、
世界人類の不幸を招くのは、
私の欲していない
ところである。
私の任務は祖先から受けついだ
日本という国を
子孫に伝えることである。
今となっては、
一人でも多くの国民に
生き残っていてもらって、
その人たちに将来
ふたたび起(た)ちあがって
もらうほかない。
もちろん、忠勇なる軍隊を
武装解除し、また、昨日まで
忠勤を励んでくれたものを
戦争犯罪人として処罰するのは、
情において忍び難いものである。
しかし、今日は
忍び難きを忍ばねば
ならぬ時と思う。
明治天皇の三国干渉の際の
お心持をしのび参り、
私は涙をのんで外相に賛成する」


(三国干渉:明治28年(1895)4月23日
フランス、ドイツ、ロシアの三国が
日本に対して行った勧告)


昭和20年8月10日
外務省は、中立国であった
スイスとスウェーデン駐在の
日本大使を通して
「天皇の国家統治を
変更するの要求を包含し
居(お)らざることの了解のもとに」
ポツダム宣言を受託する、
という電報を打ち、
連合国に伝えました。
非常にわかりづらい文章ですが、
これが成文なのです。
簡単に言えば、
天皇のもつ大権が
保護されることを
了解してもらい、
それを条件として
ポツダム宣言を受け入れ降伏する、
つまり天皇制の護持を
保証してもらいたいという内容です。


アメリカでは
賛成と反対に意見がわかれます。
早く日本を降伏に導いたほうがいい、
という意見と、
これでは無条件降伏にならない、
という意見で対立します。
イギリス、中華民国は賛成、
ソ連は結論出さず。


昭和20年8月12日夜
連合国側からの回答が決まります。
サンフランシスコ放送を通して
日本に伝えました。


「日本国の最終的の政治形態は、
ポツダム宣言に遵(したが)い、
日本国国民の自由に
表明する意思により
決定せらるべきものとす」(定訳)


これもわかりづらいのですが、
今後の日本国の政治のかたちは
国民が自由に選ぶ、
その意思によって
決定するというのであって、
天皇制を保証したわけでは
ありません。


「天皇および日本国政府の
国家統治の権限は……
連合軍最高司令官に
Subject to するものとす」


この「Subject to」を、
外務省が苦労して
「制限下におかる」と
訳したのですが、
軍部はそれを認めず、
「隷属する」と解釈しました。
すると最初の
「日本国民の意思に任せる」
なども当てにできないじゃないか、
ということになり、
ふたたび大激論です。
戦争をはじめるのは簡単ですが、
終わらせるのがいかに難しいか
ということの証明です。


IMGP1225.jpg


昭和20年8月13日
最高戦争指導会議での議論は続きます。
軍部は対立します。


そうした状況の裏側で、
陸軍では
「強硬なるクーデターによって
鈴木内閣を倒し、
軍部による内閣をつくる。
そしてこれまでの動きを
すべてご破算にし、
徹底抗戦にもっていかねばならない」
と、8月10日からクーデター計画が
着々と進行していました。


昭和20年8月14日午前7時頃
阿南陸相、梅津参謀総長、2人を前に
荒尾軍事課長が
兵力の動員について説明し、
賛同を求めました。
ですが、阿南さん、梅津さんも
反対しました。


そんな時、
天皇陛下のお召しによって
最高戦争指導会議の
メンバーのみならず、
閣僚全員、枢密院議長、
宮城内防空壕に全員集合せよという
通知がきたのです。
天皇の召集による
最後の御前会議を開いて
最終決定をしてもらうほかない、
ということになりました。


陸軍強硬派がクーデター発動の準備に
もたもたしているうちに、
陸軍大臣も参謀総長も
お呼びにかかって
宮中に入ってしまい、
上げた拳をどうしていいか
わからない状態になりました。


10時50分から会議がはじまりました。
鈴木首相は聖断を再び仰ぎます。
そこで天皇陛下は
静かに口を開きます。



「反対論の趣旨はよく聞いたが、
私の考えは、
この前言ったことに変わりはない。
私は、国内の事情と世界の現状を
じゅうぶん考えて、
これ以上戦争を継続することは
無理と考える。
国体問題についていろいろ危惧も
あるということであるが、
先方の回答文は悪意をもって
書かれたものとは思えないし、
要は、国民全体の信念と覚悟の
問題であると思うから、
この際、先方の回答を、そのまま、
受諾してよろしいと考える。
陸海軍の将兵にとって、
武装解除や保障占領ということは
堪えがたいことであることも
よくわかる。
国民が玉砕して君国に殉せんとする
心持もよくわかるが、
しかし、私自身はいかになろうとも、
私は国民の生命を助けたいと思う。
このうえ戦争を続けては、結局、
わが国が全く焦土となり、
国民にこれ以上
苦痛をなめさせることは、
私として忍びない。
この際、和平の手段にでても、
もとより先方のやり方に
全幅の信頼をおきがたいことは
当然であるが、
日本がまったくなくなるという
結果に比べて、
少しでも種子が残りさえすれば、
さらにまた復興という
光明も考えられる。
わたしは、明治天皇が
三国干渉の時の
苦しいお心持をしのび、
堪えがたきを耐え、
忍びがたきを忍び、
将来の回復に期待したいと思う。
これからは日本は平和な国として
再建するのであるが、
これは難しいことであり、
また時も長くかかることと思うが、
国民が心を合わせ、
協力一致して努力すれば、
かならずできると思う。
私も国民とともに努力する。
今日まで戦場にあって、
戦死し、あるいは、内地にいて
非命にたおれた者や
その遺族のことを思えば、
悲嘆に堪えないし、
戦傷を負い、戦災を蒙(こうむ)り、
家業を失った者の
今後の生活については、
私は心配に堪えない。
この際、私にできることは
なんでもする。
国民は今何も知らないでいるのだから
定めて動揺すると思うが、
私が国民に呼びかけることが
よければいつでもマイクの前に立つ。
陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、
陸海軍大臣は、
その心持をなだめるのに、
相当困難を感ずるであろうが、
必要があれば、私はどこへでも出かけて
親しく説(と)きさとしてもよい。
内閣では、至急に終戦に関する
詔書を用意してほしい」



昭和20年8月14日午後11時
日本のポツダム宣言受諾は
ふたたび、スイス、スウェーデン駐在の
日本大使を通して
連合国に通達されました。
ですから、アメリカもイギリスも
連合国はみな、
通達を受け取った
日本時間の8月14日夜が
「勝利の日」
になったのです。
一方、日本はこれを
全国民に動揺させずにうまく治めるよう
知らせるため、
15日正午に天皇が
放送するかたちになりましたから、
日本国民は8月15日に戦争が終わったと
思っているようですが、
実際は8月14日で終結、
ということになります。


戦争というのは、
起こすことはやたすいが、
終えるのは容易ではないのです。


ポツダム宣言受諾は、
「戦争状態を終わらせる」
「戦闘をやめる」
ということなんです。


「降伏の調印」
をするまでは、
戦争そのものは
完全に終結してはいません。


本土にたくさんの兵隊がいます。
アメリカ軍は
はるか沖縄にしかいませんし
ソ連軍は満州に入ったばかりですから、
いきなり降伏調印
というわけにもいかず、
時間がかかります。
それを利用したのが
ソ連でした。


日本は
「ポツダム宣言を受諾したのだから
ソ連もわかっているだろう」
と思い込みました。


ポツダム宣言受諾は
降伏の意思の通達でしかなかったのです。
ソ連は満州をぐんぐん攻めてきます。
日本は無抵抗でした。
これにより
多くの方々が亡くなり、
多くの方々がソ連の捕虜となります。


昭和20年9月2日
東京湾に浮かんだ
アメリカの戦艦ミズーリ号の上で
降伏文書の調印式が行われ、
日本は太平洋戦争を
「降伏」というかたちで終えました。


著者の半藤さんは
この章の最後に


「それにしても
何ともアホな戦争をしたものか。
この長い授業の最後には、
この一語のみがある
というほかないのです。
ほかの結論はありません。」


と書かれています。




ここまで読んでみますと


責任ということについて
いろいろ出てまいります。


著者の半藤さんは


「どうも戦争の熱狂は
人間を愚劣かつ無責任に
仕立てあげるようです。
とてつもない兵器を、
それも膨大な資金と労力をかけて
つくったのだから、
使わないのはおかしいじゃないか、
と軍人のみならず政治家も
考えていたようです」


と書いておりますが、
この当時のアメリカ側には
どんな心の流れがあるでしょうか。


アメリカは
日本側の降伏を引き出すため
という理由をあげています。


日本側は戦争終結の
方向に動いてはいましたが、
決断は遅く、
それを少し早めることには
なったようですが、
それはそこに都合のいい理由が
転がっていただけであって、
それを利用しただけでは
ないでしょうか。


労力とお金を費やして
作ったものを使いたいのは
人間の心理ですし、
力の誇示をすることにもなり、
原爆のデータも取れます。


原爆を使えば
多くの国民が亡くなることは
安易に想像はできることです。


アメリカ全体が
麻痺していたのでは
ないでしょうか。
興奮状態にあったのでは
ないでしょうか。
それゆえ、
感情的になってしまうのでは
ないでしょうか。


もちろん、この原爆使用に
反対した人もいたようで、
ラルフ・バードという
海軍次官は猛反対しておりました。


けれど、政策は決まりました。


トルーマン大統領は
原爆を使うことに
疑念を抱くことはなかった、
という趣旨のことを言っておりますし、
戦争というのは
人間のある一面を増幅し、
冷静には判断できない状態に
してしまうのかもしれません。


そうなれば、
自分側のことしか
考えられなくなるのでしょう。


武力を使って解決しようというのは
最終手段であって
政治では下策というのが
東洋の考え方ですが、
今の戦いは
どちらかというと、
様々な思惑が
水面下で絡まっているようで、
その戦いが起こることで
得をする側がいて、
利益を得る側がいて、
思想的目的、感情的目的を
達成する側がいる。
もちろん、
政治的な一面もあります。


守るためという理由が
最初にきますが
その背後には
いろいろとあるようです。


そんないろいろな思惑に
戦場の市民たちは
犠牲になるのです。


なんとも残念な時代です。
過度な自己利益の追求は
無責任であるとも言えます。


たとえば、
その思惑が複雑なのが
シリア内戦のようです。
それがイラクにも
流れてきています。


イスラエルとパレスチナも
終わりそうで終わらない。
もしかしたら、
争いが終わっては困る
という考えを持った人たちが
戦いの外側に
いるのかもしれません。



天皇という立場は、
絶対的権力を持ちながら
行使できず、
それを政治に利用されました。


そして、
天皇の聖断という
絶対的権力を政府側が使って
戦争を終わらせることになります。


もちろん、
天皇は戦争に対し、
反対でしたし、
国民を思えば
戦争を早く終わらせたい、
という思いでした。


国民のためならなんでもする、
という思いは
国の長としての
責任の表れではないでしょうか。


じつはこの著書の次に
昭和史戦後編があるのですが、
昭和20年10月27日
GHQ政治顧問ジョージ・アチソンが
アメリカ国務省に宛てて打った
極秘電報には


「天皇は、日本国民のリーダーとして、
臣民がとったあらゆる行動に
責任をもつつもりだ、と述べた」


といいます。


結果としてマッカーサーは
昭和天皇を東京裁判にはかけませんでした。



責任とは何なんでしょうか。



行動した結果を受け止める
ということでしょう。
それを背負っていくことでしょう。


責任は立場によって様々です。


組織の場合、
組織の長は責任を取ることが
仕事といってもいい。
そして、部下には
自由に仕事をさせる。
もちろん、管理責任はありますので
ミスが出そうならば
指摘したり
最終的に外にそのミスが出ないような
組織作り、環境作りをするのが
管理者としての仕事であり、
責任であります。
それでも業務上のことで
部下がミスをしたならば
その組織の長が責任を取るのが
通常の組織であります。


経営責任、管理責任と
いわれるものです。


人間は
ミス、間違いを
する生き物です。


それを前程に
仕組みを作らないといけない。


組織のトップが
部下を守るというのは
当然であります。


それをすべて現場に押し付けて
トカゲのしっぽ切りのように
切り捨てるなど
組織としてはおかしい
ということになります。


組織で行っていることを
一個人に押し付けていたのでは
なんのための
組織なのか、長なのか。



責任を取るというのは
人によって基準は様々でしょうが、
向き合ってみるのも
いいかもしれません。



日本人は


「無責任で主体性がない」


という傾向があります。


それは昔のことと思っておりましたが、
日本を眺めていますと
まだまだありそうです。


なぜそう言われているのかというと、
日本人の物事の判断基準は
世間常識といった
自分の外にある一般的価値観と
比較することによって判断します。


ですから、
自分で考えて
判断するわけではないのです。


自分で考え判断し決断して行動する、
ということをしていませんので、
当然ながら自分の行動に
責任は取れませんし、
自分の考えではありませんので
主体性もありません。


基準が自分の中になく、
外にあるのですから。


日本人は


「みんながやっているから」


と言われると
納得してしまいそうに
なるのではないでしょうか。


日本人は流行に敏感ですが、
流行に流されやすいとも言えます。


これはまわりの価値観に
流されやすいとも言えます。


他の価値観から学ぶことは良いですが、
何も考えず受け入れるのも
問題があります。


先進国でやっているからといって
それを理由にして
日本でもやるべき、という
検証や議論を中抜きするような人も
日本人らしい思考と言えます。


よく


「常識」「非常識」


という一言で
すべてを片づけてしまう人がいますが、
これは
自分の外にある価値観だけで
すべてを判断しているからで
自分の基準で
考えて判断していないためです。


こういうことを言っている人は
理由をきちんと説明できない場合が
多いのではないでしょうか。



最近では
高校生が同級生を殺害したことが
話題となりました。


その真相は専門家に
委ねるところですが


(いろいろ推測はできますが、
情報が少なく、
報道も受け手に
興味を引きそうなところしか
スポットを当てておらず、
未成年ということもありますので
控えさせていただきます)


私としては
少し見方を変えて
書かせていただきますと、


子どものこういった現象というのは
社会のサインであり、
社会の評価である、
というのが私のひとつの見方です。


子どもというのは
精神は発達途上であり、
自己が確立しておらず
まわりの影響を多く受けます。
純粋さゆえ、
環境に影響されやすい存在です。


そういう存在であるから
子どもが起こした行動というのは
社会環境や家庭環境といったものから
大きく影響を受けていて
その結果が現れている
という見方ができます。


これはなんとなく
感じていることですが、
今回の事に限らず、
日本全体にも言えることですが
ひとつの言葉が
当てはまってしまうような
気がしています。


すべての事柄に


「無責任」


という言葉を当てはめてしまうと
案外、当てはまってしまうのでは
ないでしょうか。


無責任社会です。


無関心社会、
無責任社会、
という流れでしょうか。


このままいくと、
次に出てくるのは


無秩序社会


でしょう。


日本では
詐欺がひとつの例でしょう。


こういう社会は
今の世代、
前の世代
さらにその前の大人たちが
作った世界なのです。


その影響は
子どもたちに伝わります。


子どもは
親や大人、社会を見て
成長します。


その影響を無意識に
吸収するのです。


無関心社会になるのは
あまりにもひどい
理不尽社会があるからで
力の論理だけで
すべてを動かしているからです。


無力感が無関心となります。


無関心社会になりますと、
自分のことだけ
考えるようになります。
自分さえよければよい、
となり、
自分の慾、内面を満たそう、
となります。


その行動がどのような影響を
及ぼすのか想像しません。


無責任になります。


無責任の行動をする人が
あふれれば
ルールを守るのが
損となります。


無秩序となります。


これは国力を
低下させていることになります。
ここまでくると
国家存亡の危機です。



子どもを変えたければ
まずその環境や大人が変わることです。


大人が変わって見せて
手本を示さなければなりません。


子どもは
環境の犠牲者ともいえます。



最近は道徳を教科科目に
導入するということですが、
懸念している点をあげれば、


大人のおしつけでは
何も変わりません。
答えを提示して
誘導しているようでは
それは思想誘導もいいところで
特定思想を植え付けることに
なります。


子どもたちに
考えさせ、
判断させ、
なにが大事なのか、
大切なものを
見つける授業と
ならなければなりません。


子どもなりに
本質を見つける過程を
身につけることで
時代の変化の中でも
生きていく力となるのです。


例えば、
教育勅語のような
おしつけは
今の時代には合わない
ということです。


考えをおしつけてしまうと
考えなくなります。
それしか行動できなくなります。
マニュアル人間と同じです。
変化に対応できません。


日本は民主主義国家です。


日本国憲法には


第十九条  
思想及び良心の自由は、
これを侵してはならない。


とあります。


子どものときに
思想を植え付けることは
思想の自由を奪うことになります。


その点を注意していただきたい
と思います。



著者の半藤さんが


「戦争というのは、
起こすことはやたすいが、
終えるのは容易ではないのです。」


と、戦争終結の難しさ
書いておりますが、
それは現在の状況を見ても
実感するばかりです。


勢いのついた車は
ブレーキを踏んでも
急には止まれないように
勢いのある川の流れは
止めることは難しいように
勢いがついてしまうと
止まるのも難しいようです。


火事は小さいほうが
消しやすいのです。


かといって、
小さい火事を消そうとして
油を注ぐ結果になったり、
これからの時代は
本質を見る力が
必要なのかもしれません。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第17回

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岩手県盛岡市在住。もりおかの中から感じたことを書いております。個人的なブログです。【このブログについて】

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