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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第15回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

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日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】 【第14回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第14章
日本降伏を前に、
駆け引きに狂奔する米国とソ連


昭和20年(1945)
著者の半藤さんは中学生でした。
その当時の暮らしぶりが書いてあります。


わが大日本帝国はもう末の世で、
どこにも希望のもてることは
なかったと思います。


三度の食事がとれたのは
前年の10月までくらいで、
とにかく腹を空かしていました。


主食はもとより、
肉も野菜も魚も嗜好品も
ぜんぶ配給品です。


店からあっという間に
消えてしまい、
裏側のいわゆる
「闇取り引き」が
日常生活を支えていました。


物価はどんどんはね上がり、
配給で決めている
公定価格の30倍近くにまで
なったと思います。


新聞の配給欄には毎日、
何地区に何が配給されます、
と品物と数量が載っていて
それを見ると
当時の私たちの生活は、
たとえば4人家族に
イワシが2匹といった状況でした。


たばこは男一人につき6本、
女はなしです。


60歳以上と15歳未満には
一ヵ月に1回だけ
お菓子が配給されました。


昭和19年の11月末くらいから
勤労動員で、
中学2年生だった私は
軍需工場で働いていました。



随筆家で漫談家の
徳川夢声(とくがわむせい)(1894-1971)
の日記には


「3時頃の高射砲と半鐘で起きる。
敵機はすでに頭上を去り、
向うのほうで焼夷弾を
落としている。
大変な元旦なり。
娘たち、警報解除とともに
八幡神社で初詣で。
除夜の鐘ならず、
除夜のポー、
除夜の高射砲。
敵機去りし雲くれないに初日かな
元暁(がんぎょう)の
焼夷弾こそあぶなけれ」


(ポーは警戒警報。
元暁は元旦の暁?)



昭和20年2月4日
8日間にわたり、ヤルタで
ルーズベルト、チャーチル、スターリン
3人で会談します。


ルーズベルトは
ソ連の日本攻撃を強く要求します。


スターリンは


「私たちはそのつもりでいます。
けれどもそのかわり、
帝政ロシアが日露戦争の敗北によって
失った諸権益を
すべて復活してもらいたい。
樺太(サハリン)の南半分と
千島列島をソ連に返す、
大連港を国際港とする、
旅順港をソ連に供与する、
南満州鉄道をソ連が租借する、
日本がロシアから奪い取ったものを
返してもらうことだけを
私は願っているのです。
対ドイツ戦争は明らかに
わが国の生存にかかわる問題でしたが、
日本とは今日まで大した紛争もなく、
それと戦争するといっても
国民が容易に理解しないかもしれない。
しかし、奪われた権益を復活するという
希望がもし満たされるのなら、
国民に対日参戦が
国家的利益であることを
了解させることができると思うのです。
それなら大手を振って
日本を攻撃できます」


ルーズベルト
「取られたものを
取り返したいというのは、
きわめて当然な要求でありましょう」


ヤルタ会談でドイツの降伏後、
準備期間をとって
3ヶ月後にソ連が
対日参戦することを決めます。
(日ソ中立条約がありますが、
のちにソ連側は条約破棄します)



日本は本土決戦のことについて
考え始めます。
たくさんの兵を集めて
人海戦術で対抗する


「本土決戦完遂基本要綱」


が決定されます。


陸軍次官
柴山兼四朗(しばやまかねしろう)中将は


「いったい兵隊の数が多ければよいのか。
集めたって、鉄砲が足りないではないか。
むしろ少数でも充実した部隊を
つくったほうがいいのではないか」


作戦部長宮崎周一(みやざきしゅういち)中将は


「質よりもこの場合は数だ!数を第一とする」


と怒鳴ったそうです。


参謀次長秦彦三郎(はたひこざぶろう)中将は


「本土決戦とういのは、
あらゆる手段を講じてでも、
第一波を撃砕するにある。
もしこれに失敗したら、
その後の計画は不可能になる。
後のことは考えない。
とにかく全軍を投入して
人海戦術で敵第一陣を
完全に撃滅することだけが
大事である」


日本全国に赤紙がばら撒かれ
村にはほとんど
年寄りと女と子どもだけという
状態になってゆきます。
(赤紙:召集令状)



サイパン、テニアン、グアム島からの
B29による本土空襲が
どんどん激化します。
高高度から、精密照準による
爆弾攻撃をしていましたが、
日本は真冬ですから
日本の上空には
ものすごい季節風が吹いていて
考えている以上に押し流されて、
なかなか命中しない。
日本は戦闘機が懸命に体当たり。
米軍は爆撃の効果があがらないのに、
B29の損害は軽視できないことに
我慢がならなくなりました。


日本本土上空で損害を受けて、
洋上に不時着する数多い爆撃機の
搭乗員の生命を救わねばならない。
潜水艦だけでは間に合わない。
いざというときに
緊急着陸できる滑走路が
どこかに必要がある。
さらにB29の護衛に強力な戦闘機を
つける必要があるという
強い要請もあり、
マリアナ諸島と日本本土との間に
どこかの島に航空基地を
つくらねばならない
ということになったのです。
そこで小笠原諸島の南西、
硫黄列島の中央にある
硫黄島が狙われました。
ここを奪われれば
日本本土の制空権は米軍の手に
にぎられてしまいます。


日本軍は29,000あまりの将兵を送り込み、
必死に護ろうとしました。
上陸してきた米海兵隊75,000。


昭和20年2月19日朝から開始され、
米軍の死傷25,851人。
上陸した海兵隊員の3人に1人が
戦死または負傷したことになります。


日本軍の死傷者2万数百人。
うち戦死19,900人。
米軍が反攻開始後
その損害が日本軍を上回ったのは、
この硫黄島の戦いだけであります。
しかし、硫黄島は
米軍の手に落ちることになりました。


アメリカは
ヨーロッパ戦線の
ドイツ空襲で大活躍した
カーチス・ルメイ中将を
マリアナ方面の指揮官に赴任させます。
すぐに考えたのは
夜間低空飛行による焼夷弾攻撃でした。


一、日本の主要都市に対して
夜間の焼夷弾攻撃に
主力をそそぐことにする。


二、爆撃高度は5,000フィートより
8,000フィートとする。
(1,500メートル~2,000メートル
いままでは10,000メートルを
飛んでいました。)


三、各機は個々に攻撃を行うこととする。
(編隊を組まないで一機ずつ)


「日本の家屋は木と紙だ。
焼夷弾で十分に効果を上げられる」


昭和20年3月10日
東京大空襲が皮切りとなりました。


アメリカは
「日本の民家は軍需工場と同じだ、
いわゆる民衆ではなく戦士であって
無差別攻撃にはならない」


と弁明しています。


著者の半藤さんは
この空爆で川に追い詰められ
危うく命を落としそうになったそうで
襟首つかまれて
川の中から引き揚げてもらい
助かったそうです。
東京の下町は全滅。
少数の家内工場はありましたが、
ほとんどは普通のしもた屋
でしたので
(しもた屋:前は商売をしていたが、
やめて普通の家)
正真正銘の無差別攻撃であった
と書いています。



昭和20年4月1日
アメリカは沖縄にやってきます。
軍艦1,317隻
飛行機1,727機
上陸部隊18,000人。


日本軍
第32軍69,000人
海軍陸戦隊8,000人
合計77,000人
仕方なく
満17歳~45歳の
沖縄県民男子25,000人を動員。
男子中学上級生1,600人も
加えられます。
さらに女学校上級生600人も動員。
これが「ひめゆり部隊」です。


沖縄をとられれば
次は本土決戦ですが、
その準備ができていませんから、
とにかく沖縄で
頑張ってもらうしかないのです。
できるだけ敵を倒し
時間を稼いでほしいということで、
陸海軍も全力を上げます。
戦艦大和を中心とする
残存の数少ない艦も
特攻作戦で沖縄への出撃を
命じられました。


昭和20年4月7日
戦艦大和は
九州坊岬沖で米軍約380機の
攻撃を受けて大和隊は壊滅します。
2時間の奮戦の後に大和は沈み、
乗組員2,740人戦死、
軽巡洋艦矢矧(やはぎ)ほか、
駆逐艦4隻が沈み、
970人あまりが亡くなりました。


空からは
ありったけの飛行機が注ぎ込まれ
特攻につぐ特攻。
当時の隊員がしきりに口にした
良寛の句があります。


散る桜
残る桜も
散る桜


今日を生き延びても、
明日その身は保証されませんでした。


ソ連が日ソ中立条約を廃棄することを
通告してきます。
条約は廃棄通告後1年は
有効と規定されていますが、
国民は誰もその通りには
受け取っていませんでした。


鈴木貫太郎内閣が成立。
当時78歳でした。
昭和天皇に
「もうお前しかいない」と
無理やり頼み、
そこまで言われるなら、
と引き受けたそうです。


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昭和20年4月13日
ルーズベルト大統領が亡くなります。
鈴木貫太郎首相は
その死を悼んで弔辞を送ったということで
「戦ってる相手国の首相が
哀悼の意を表してくれるのか」
と話題になったそうです。


後を継いだトルーマン大統領は
政策を踏襲。


日本は


「最後の一兵まで戦うほかない」


と改めて決意を固めたのです。


昭和20年4月28日
ムッソリーニが
イタリア国民によって銃殺。
逆さまに吊るされました。


昭和20年4月30日
地下壕で砲声を聞きながら
ヒトラーが自決します。


昭和20年5月7日
ドイツ無条件降伏。


イタリアは1943年9月に降伏し、
連合側についていますから、
世界を相手に戦うのは
日本だけとなりました。


ドイツ降伏という重大事に、
さすがの鈴木内閣も
いかに戦いを終結に導くべきかを
考えざるを得なくなり、
5月中旬、
鈴木総理大臣、東郷外務大臣、
阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、
梅津参謀総長、豊田海軍連合司令長官の
6人が集まり、
密かに「最高戦争指導会議」をもちます。
「大本営政府連絡回会議」が
名を変えたものです。
そこでいざとなったら
ソビエトを仲介とする
和平を実行しようと決まります。
ですが、表向きは徹底抗戦を
うたっていました。


昭和20年6月8日
御前会議では
終戦内閣ではなく、
決戦内閣そのもののような決意を
するのです。
ドイツ降伏後も日本は
あくまで戦争完遂、
最後まで戦い抜くと決めるのです。
そして天皇が例によって
無言で裁可し、
これが国の方針となります。


部屋に戻った天皇は
木戸内大臣を呼び


「こんなものが決まったよ」


とその紙をポンと放り投げるように
置きました。


それを見た木戸さんは、
「もしかして天皇は
建前上ノーと言わないが、
決定にご不満なのではないか。
和平を考えているのでは」
と感じ、
自分なりに和平の構想を練ります。


それは天皇の親書を持って
特使をソ連に派遣し、
世界平和のために
忍びがたきを忍んで、
なんとか名誉ある講和を
結ぶことにしたい、
という内容でした。


これを見た天皇は


「やってみるがいい」


と言い、
木戸さんは東郷外相を呼んで
経過を説明し意見を聞きました。


東郷さんは
「あなたの試案には賛成だが、
つい先日の御前会議で決定された
戦争完遂の大方針はどうなるのか。
あの国策決定がある以上、
陸軍から反発もくるだろうし
和平工作は進めにくい」


鈴木貫太郎首相に相談すると、
「それなら5月中旬に密かに
決めておいた、
ソ連仲介による戦争終結案を
具体的に進めることにしよう」
と決意しました。


そのためには
先の御前会議の決定を
ひっくり返さねばなりませんが、
会議をやり直すには陸海軍の賛同が
必要ですから簡単にはいきません。


そこで鈴木さんは
「公式の御前会議は難しい、
天皇陛下自らに呼んでもらって
会議を開けないか」
と考えます。


昭和20年6月9日
満州・中華民国の視察から戻った
梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長から
報告を受けます。


「満州と支那にあります兵力は、
すべて合わせても
米国の8個師団ぐらいの戦力しか
ありません。
しかも弾薬保有量は
近代式な大会戦をやれば
1回分しかありません」


天皇は驚きました。
「内地の部隊は満州よりも
はるかに装備が劣る
というではないか。
それでは陸軍も海軍も主張する
本土決戦など無理じゃないか」


昭和20年6月12日
天皇の命令によって
日本全土の兵器廠(へいきしょう)や
横須賀、呉、佐世保、舞鶴の
各鎮守府(ちんじゅふ)、
さらに航空基地を3カ月間
特命で視察してきた
長谷川清海軍大将による報告。


「自動車の古いエンジンを
取り付けた間に合わせの小舟艇が
特攻兵器として
何千何百と用意されているのです。
このような事態そのことが
すでにして憂うべきことで
ありますうえに、
そのような簡単な機械を
操作する年若い隊員が、
慾目にみても
訓練不足と申すほかはありません。
動員計画そのものも、
まことに生き当たりばったりの
ずさんなものでございまして、
浪費と重複以上のなにものでも
ありません。
しかも、機動力は空襲のたびに
悪化減退し、戦争遂行能力は
日に日に失われております」


天皇は
「そんなことであろうと思っていた。
わかった、御苦労であった」


昭和20年6月15日
天皇は病んで倒れます。


昭和20年6月20日
天皇は東郷外相にこう言いました。


「最近受け取った報告によって、
統帥部の言っていることとは違って、
日本内地の本土決戦準備が
まったく不十分であることが
明らかとなった。
なるべく速やかに
戦争を終結せしめることに
とり運ぶよう希望する」


昭和20年6月22日
天皇が自ら召集し
意見を聞くための
懇談形式の最高戦争指導会議が
開かれます。
正式の御前会議のように
ずらりとメンバーが並んだ中央に
天皇が座る形式をとらず、
扇型にメンバー6人が
天皇を囲んで
雑談するような形でした。


しきたりを破って
まず天皇が発言します。


「戦況は極度に悪化している。
今後の空襲激化などを考えると
一層の困難が予想される。
この時に当たって、
先の御前会議の決定により、
あくまで、
戦争を継続するのは
当然のことであろうが、
また一面においては、
戦争終結についても、
この際、今までの観念に
とらわれることなく、
速やかに具体的研究を
することもまた必要では
なかろうかと思う。
これについて、
皆はどう考えているか」


誰も表立って言わなかった


「和平」


を、天皇陛下が言いだしたのです。


一瞬、皆が沈黙におちいり、
天皇は首相を名指しします。
鈴木首相は立ち上がり、


「お言葉を拝して
まことに恐縮ですが、
あくまで戦争を最後までやることは
頑張らねばならないと思いますが、
お言葉のように、
それと並行して
外交的な方法をとることも
必要と考えております。
その点につきましては
海軍大臣によりご報告させます」


と譲られた米内光政は


「実は私たちも
5月半ば頃に和平を考え、
方法なども相談していました。
最高戦争指導会議のメンバー6人の
極秘の懇談会ではありましたが、
それを具体的に
進めることにいたします」


というように、
ソ連を仲介とする和平の構想を
説明しました。


天皇陛下はそれを聞いて、
「では外交的解決の日は
いつを予定しているのか」
と突っ込んできました。


東郷外相
「連合国は、ベルリン郊外の
ポツダムで7月半ばに会議を開くと
発表しています。
その前に、
なんとか7月はじめまでに
協定に達したいと考えています」



その同じ日、
沖縄戦は日本軍の潰滅をもって
終了しました。


戦死109,000人
市民100,000人が
亡くなりました。



日本はソ連を仲介して
和平工作をするのですが、
ソ連は返事を引き延ばします。


日本が戦い続ければ
参戦の機会があるわけで、
取れるものは取るつもりのようです。


アメリカはソ連参戦前に
日本を降伏させたい。
そこで原子爆弾が登場してくるのです。


昭和20年7月26日
日本を降伏を勧告した
ポツダム宣言が発せられます。


昭和20年7月27日
日本に届きます。


天皇は
「これで戦争をやめる見通しが
ついたわけだね。
原則として
受託するほかはないだろう」
と東郷外相に告げました。


ところが日本政府は
ソ連仲介の依頼の返事を
待っている時です。
律儀に
依頼を断るわけにはいかない、
ということで
ポツダム宣言は無視しよう
ということになります。


昭和20年7月28日午後4時
鈴木首相は記者会見をします。
ここで「黙殺」という言葉を
使うのですが、
これはノーコメントの
意味だったようですが、
外国の新聞は
ポツダム宣言を拒絶した
と報じるのです。


ちなみに
ポツダム宣言が出る前、
7月24日には
原爆投下命令が
出されていたようです。


何も知らない日本は
ひたすらソ連の返事を
待っていたのです。



ここまで読んでみますと
終戦前の暮らしぶりは
戦争を体験した人でないと
わからないことばかりです。
4人家族でいわし2匹というのは
衝撃的でした。


子どもも軍需工場で働き、
全国民が
戦争に関わっていたようです。
国家総動員です。



スターリンがヤルタ会談で言った
諸権益の中で
「樺太(からふと・サハリン)の南半分と
千島列島をソ連に返す」
というのは、
この当時日本は
樺太の南半分と千島列島を
持っておりました。


流れを簡単に書きますと
1855年日露和親条約が締結され
択捉(えとろふ)島以南を日本領とし、
樺太は日露雑居地としますが、
樺太で紛争が多くなったので
1875年樺太・千島交換条約によって
樺太はロシア領、
得撫(うるっぷ)島以北の
千島18島を日本領とします。


1904年~1905年日露戦争に勝利します。
ロシアは戦争賠償金は払わないかわりに
樺太の南部を割譲しました。
それがその当時の状況です。


その後、終戦後のソ連の行動や
サンフランシスコ講和条約、
千島列島の認識の違いなど
いろいろあり、
現在でも日露間の問題となっております。
(いわゆる、北方領土問題)


現在のロシアを眺めていますと
ウクライナ情勢で
孤立するばかりです。
中国がいますので
完全孤立とはならないようですが、
日本としても
これは残念なことでしょう。
立場上、沈黙することも
許されなくなってしまいました。


それぞれ国内事情や
都合があるかと思いますが
解決に向けて態度を見せないと
制裁は緩むことはないでしょう。


制裁をかけた以上、
それなりの理由がないと
解除はできないからです。


非協力的ですと、
なにか隠したいことが
あるのではないか、と
疑います。


解決に向けて
その姿勢を見せることが
反応を変化させる
きっかけとなるでしょう。


旅客機が撃墜され、
たくさんの方々が
犠牲になっている以上
この問題の責任の所在を
はっきりさせない限り
前には進みません。


これは時間が経てば
自然と終息する性質の
問題ではありません。
しっかりとここで
区切りをつけておかないと、
後々のわざわいとなるでしょう。



昭和20年3月10日
東京大空襲


アメリカは無差別攻撃ではない、
としておりますが、
夜間の爆撃ですので、
どれが民間でどれが軍需工場か
見分けがつくわけがありません。


東京大空襲に限らず、
過去の戦争からもわかることですが、
民間と軍ははっきりと
区別しなくてはなりません。
あいまいになったり、
混ざったりしますと
民間人は巻き込まれます。


攻撃側も明確に判断できません。
戦場で判断して
精密な攻撃をし、
武力を排除するなんてことは
難しいでしょう。


本当に国民を守りたいならば
戦闘が起こっても
民間人は巻き込まれないような
対策が必要です。


ですが、
どんな理由があろうとも
市民を殺害する行為は
不法行為です。
責任は取らねばなりません。


(日本の場合は
サンフランシスコ講和条約で
国家間は解決済みのようです)



現在、日本の防衛省は
有事の際、
自衛隊員を戦闘地域まで運ぶため
民間フェリーを使用することを
検討しているようです。
民間フェリーの船員を予備自衛官として
随行させるようです。


これは勝手な推測ではございますが、
本当のところは
これは集団的自衛権がらみの
武器輸送などに
関係しているのではないでしょうか。


海外の例では
民間の船が有事に輸送の手段として
使われたケースがあるようですが、
どうなんでしょうか。


まずは予備自衛官ですが、
予備自衛官は2つのパターンがあり、
自衛官経験者がなる場合と、
一般国民が訓練を受けてなる場合があります。
一般国民が予備自衛官補として採用され
訓練を受けて、予備自衛官となります。
これは現在陸上自衛隊が採用しています。


船の技術がある人は
少ないでしょうし、
人口減少に伴う自衛官減少の
対策の面もありそうです。


フェリー会社が
従業員に対して
業務命令のような感じで
予備自衛官を進めてくるでしょうし、
従業員も断りにくいでしょう。


会社のことに関しては
関与しないとしていて
責任を現場に押し付けるようです。


まだ検討段階でありますが、
感じていることを
書かせていただくと、


民間に予備自衛官を
募集させるようなものです。


予備自衛官制度を利用し
責任は現場に押し付けて
自衛官を確保する。


なにか、民間フェリー会社が
予備自衛官を集める
派遣会社に見えてきました。


本人の意思で
予備自衛官になるならば
よいのですが、
それと反する行為は
人権を尊重しておりません。


責任とリスクを負えないなら
やってはいけません。


募集するならば
堂々とできる方法を
検討することです。


輸送中というのは
狙われる危険が高いと思います。
もちろん、
護衛はつくでしょうけれど
民間の船を使った場合、
敵側はどう見るでしょうか。


攻撃対象となるでしょうし、
判断がつきにくくなって
有事の輸送業務とは関係ない
純粋な民間船が
敵の誤認により攻撃される
可能性もでてきます。


ウクライナで
民間旅客機が撃墜されたばかりです。


戦時中、兵たちの精神には
非常に強い負荷がかかるのです。
通常ではありえないような行動も
起こるのです。


本当に国民を
守りたいのでしょうか。
それとも国民を
国益に利用したいのでしょうか。


国民は国益の道具ではありません。


そのあたりを
勘違いされないよう
お願いいたします。


無理に人を動かそう
という考え方は
戦時の考え方です。


相手を強引に
コントロールしようとするのは
相手の人権を無視することと
同じことなのです。



終戦のきっかけをつくったのは
天皇でした。
戦争を終わらせたい、という気持ちが
常にあったのだと思います。


大きな決断は
大きな方が先に動くことが
大事なのではないでしょうか。
その変化を見て、
まわりも態度を変化させました。


これは私が思っていることですが、


まわりを変えたければ
まず自分から。


自分を変えられない人に
まわりは変えられない。


と思っております。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第16回

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