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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第14回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

IMGP1224.jpg


日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第 9 回】 【第10回】 【第11回】

【第12回】 【第13回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第13章
大日本帝国に
もはや勝機がなくなって……


ミッドウェーの次は
昭和17年(1942)8月8日
ガダルカナル島の争奪戦です。
ミッドウェーで海軍が負けたことは
外部には秘密にされていました。
陸軍は南方地域を
完全に占領していたので
大いに意気が上がっています。



太平洋戦争は
航空母艦あるいは
飛行機による戦争でした。
アメリカの太平洋艦隊も
イギリスの東洋艦隊も
主力といわれた戦艦は
飛行機によってあっという間に
沈められました。
日本の機動部隊の飛行機が
空を蔽(おお)う限り、
アメリカもイギリスもオランダも
敵対することは
まったく適(かな)いませんでした。


では、飛行機の戦争とは
どういうものか。


爆撃機はかなりの航続距離を
もっていますが、
戦闘機はそれに比べれば短い。
その中でも
日本の零式戦闘機(ゼロ戦)は
約2,000キロと
非常に長い航続距離をもっていて
往復するなら1,000キロ飛べます。
ただし、それでは(目的地に到達しても)
すぐに戻ってこなくてはならず
戦闘にはなりません。
せいぜい800キロ辺りを
コンパスで描き、
その範囲内でどこかに
次の飛行場をつくり、
またそこから800キロの円を
コンパスで描き、
その範囲内でどこかに
次の飛行場をつくり、
またそこから800キロの円を描いて…
というかたちで
戦争を進めていったのです。


最初の頃は、
まず日本の飛行機が
敵の空軍を撃破して
制空権をとり、
陸軍部隊や艦艇が
それに続くという作戦が、
実にうまく進みました。


日本は
日本本土を守るためには朝鮮半島を
朝鮮半島をを守るには満州を
というように
守るために前へ前へ進むわけで、
太平洋においても南へ南へ
サイパン島、テニアン島
グアム島のマリアナ諸島
その先のトラック島を中心とする
カロリン諸島、
ラバウルと
前進基地を広げていくわけです。


ラバウルを守るには
さらに先の南の島に
飛行場をつくる必要があるというので
また円を描きました。


するとちょうどその1,000キロ先に
ガダルカナル島があったのです。
ゼロ戦の航続距離ギリギリの半分ですから
そこを奪っても
ゼロ戦は行ってすぐに
戻らねばなりません。


要するに、容易には
守ることができないところにまで
敢えて踏み込んだのです。


その手前に飛行場に
適した島がないわけではなく、
ブインに慌てて飛行場をつくりますが、
調子に乗っていますから
遠くガダルカナルにまで
脚を伸ばしたのです。


ところがガダルカナルに
日本の基地ができるということは、
アメリカ軍にすれば
豪州との間に輸送路が遮断され、
常に日本の空から
監視下におかれることになります。


アメリカは7月2日に早急に
攻略作戦命令を出しました。


そんなことを知らない日本軍は、
滑走路や兵舎をつくり
7割できていましたが
アメリカ海兵隊に追い払われ、
あっというまに完成させてしまい
アメリカ一大基地に
なってしまったわけです。


ラバウルから発進した零戦は
カダルカナル島上空にいられるのは
わずか10分間、
すぐに戻ってこないといけません。
アメリカは逃げて
10分間待っていれば
引き返すことがわかっていますから
まったく恐れないのです。


8月8日にはじまって、
12月31日撤退を決めるまでの
5ヶ月間
海軍は艦艇24隻
計13万483トン沈みました。
アメリカも24隻、
計12万6240トン沈みます。


飛行機は
日本 893機撃墜 搭乗員2,362戦死
ベテラン飛行機乗りが
大半が戦死し、
以後、熟練していない人たちが
飛行機に乗るようになりました。


陸軍兵力33,600人のうち
戦死約8,200人、戦病死約11,000人
そのほとんどが栄養失調による餓死。


アメリカは
陸軍および海兵隊計60,000人のうち
戦死1,598人 戦傷4,709人
戦病死者はなし。
ペニシリンが
すでに発明されておりましたから
マラリアだろうがどんどん治ったのです。


日本軍の完全敗北でした。


IMGP1225.jpg


大本営は負けたことをごまかしながら
ガダルカナル島を取り戻すことをやめて、
他へ軍隊を「転進」したといいます。


天皇に
「ではどこへ攻勢にでるのか」


と聞かれた時
参謀総長杉山元が
「ニューギニアです」


と言いました。


ニューギニアも
カダルカナル島までの
距離と同じで
戦闘機は10分間で
返って来なければならないのです。
カダルカナルと
同じような戦いを繰り返しました。


17万の将兵が
終戦の日まで戦闘を続け、
生還し得たものは
1万数千という悲惨となったのです。



以後アメリカは、
カダルカナルからコンパスを回し
その範囲に入る次の島を落とし、
またそこからコンパスを回して
次の島を攻め上がっていく、
という北上の進撃を開始します。


ラバウル島は
5万人くらいの陸海軍がいましたが、
アメリカがコンパスを回すと
「占領する必要なし」
という位置にあるのです。
ですから待っていても来ないのです。
兵隊さんはやることがなくて
自給自足体制で
百姓をやったり
部品を集めてきて
飛行機を三機つくったそうです。



その後、日本は本土へ、
アメリカは真珠湾へ引き挙げ
海の戦いはこれで一段落となります。
アメリカは猛烈な勢いで
航空母艦を造りだし、
飛行機乗りもどんどん訓練して
戦力を整える。
日本は国力がありませんので、
少しずつ船をつくり、
再度のアメリカ艦隊との
決戦に備えました。
これが昭和18年のはじまりです。



昭和18年1月14日
モロッコのカサブランカで
ルーズベルトとチャーチルが会います。
アメリカはカダルカナルを手に入れ
イギリスも
ロンメル将軍指揮する
ドイツの戦車軍団を
エルアラメインで撃破して、
大いに意気があがっていました。


ルーズベルトは
ドイツもイタリアも日本も
無条件降伏以外は
戦争をやめることはできない、
と宣言します。


チャーチルや蒋介石は反対したのですが、
アメリカは断乎として主張しました。


この宣言が
今後の日本の戦いぶりに影響します。
無条件降伏以外に
戦争をやめられないのなら、
最後の一兵までも戦って
なんとかせざる得ないと、
日本軍の徹底抗戦がはじまるのです。



昭和18年4月18日
山本五十六長官 戦死。


アメリカは日本の暗号を
解読していましたが、
昭和18年春頃には
完全に解読に成功し、
日本海軍の計画も
ほとんど読まれていたのです。
したがって、
山本が視察のために
ラバウルから
ブインの飛行場に
飛ぶ計画の分秒までも知られていて、
完全に把握していました。


山本の撃墜作戦が組まれ、
予定通りに来た飛行機を待ち伏せし、
撃墜に成功しました。


直接指揮したハルゼイ大将が
大喜びで電報を打ちます。


「攻撃隊員に祝意を表す。
獲物袋の鴨のなかに、
孔雀が一羽
まじっていたそうだな」



日本は敗北に次ぐ敗北が
はじまっていきます。



昭和18年10月21日
明治神宮外苑で
出陣学徒壮行会が行われます。
学徒出陣です。
青年がどんどん
戦場へ送られていきます。



昭和19年春
インパール作戦。
インパールというのは
ビルマ(今のミャンマー)の
国境線の向こう、
山を越えたところにある
インドの主要都市です。
常識的には
今頃インドに進攻して
どうするのか
という話なのです。


実は不利になりゆく戦勢で
不人気になりつつある東条内閣への
全国民の信頼を再燃させるために、
という政治的な意図がその裏には
ありました。
これは個人的な野望であったようです。


この作戦を推進したのが、
第十五軍司令官・牟田口廉也中将です。
東条首相の子分といわれている人物。
その上にいたのが
ビルマ方面軍司令官・河辺正三大将です。


2人は盧溝橋事件の時の
旅団長と連隊長でした。
同じコンビが
この大作戦に当たったわけです。


当時、冷やかしの歌が流行りました。


「牟田口閣下のお好きなものは、
一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女のこと)、
三に新聞ジャーナリスト」


昭和19年3月に開始された作戦は
4月末頃には戦力は40%前後に低下し、
撤退したほうがいいという状況になります。
しかもビルマは5月を過ぎると雨季で
撤退もしづらく、
できるだけ早く作戦を中止すべきだ
という雰囲気になりましたが、
牟田口さんは、なお攻撃を主張します。


結果的には、
日本軍は完敗、徹底的に撃破され、
雨季のどしゃぶりの中の
インパール街道を各部隊は後退、
それをイギリスとインドの連合軍が
戦車で追撃するという
哀れな失敗に終わり、
実に多くの方が戦死しました。



アメリカはフィリピンを落としてから
日本本土を目指す作戦です。
昭和19年夏、サイパン島を襲います。
もしそこをとられたら、
ヨーロッパですでに活躍している
超大型爆撃機B29をそこへ持ってきて
日本本土を空襲するのは必至です。


マリアナ諸島の
サイパン、テニアン、グアムの
大きな3つの島に
陸軍部隊がはりつき、
難攻不落の防御態勢を整えました。


東条さんは
「一週間や10日は問題ではない。
何ヶ月でも大丈夫である。
サイパンは占領されることはない」


と言ったのですが、
ひと月もたたない
昭和19年6月15日
米軍はサイパン島に
上陸を開始しました。


昭和19年6月19日
連合艦隊が総力をあげての
決戦にでます。
9隻の空港母艦をすべて出撃し、
アメリカの15隻との間に
激闘が交わされます。


結果は惨憺(さんたん)たる
日本海軍の敗北でした。
日本は空母3隻撃沈、
一年がかりで養成した
飛行機部隊は壊滅、
395機がほとんど全滅。


昭和19年7月7日
サイパン島で負けた日本は
この戦争における勝利は
まったくないことが
決定づけられました。


昭和19年7月18日
東条内閣は総辞職し、
小磯国昭内閣が成立します。



昭和19年10月18日
23時30分頃
以下の話は
本当かどうか
確信はないようですが


大西滝治郎中将が
最前線の基地マラバカット
に飛んだとき、
突然、特別攻撃隊出撃案を
持ちだします。


マラバカット基地には
戦闘機主体の
第201航空隊がいて、
その副長玉井浅一中佐に
大西さんが


「零戦に250キロの爆弾を抱かせて
体当たりをやるほかに、
確実な攻撃方法はないと思うが…
どんなものだろうか」


玉井副長
「私は副長ですから、
勝手に決めることはできません。
司令である山本栄大佐に
意向を聞く必要があります」


大西中将
「いや、山本司令とはもう
マニラで会って、
十分に打ち合わせ済みである。
副長の意見を聞いてほしい、
万事、副長の処置に任せる、
ということであった」


大西さんが山本司令に会った
という証拠はないそうです。
大西さんは嘘をついたことに
なります。


玉井副長はこの案を承知します。


昭和19年10月20日
神風攻撃隊が編成されました。
神風は正しくは”しんぷう”
というらいですが、
一般には”かみかぜ”と
呼ばれました。


この特攻隊は
軍令部で計画として練られていて
大西さんは発案者でも何もなく
海軍中央の総意の
実行者だったのです。
ただ、大西さんは
「命令」はしたくないという
思いがあった。
そこで「案」として出し、
採用するかしないかは、
現地任せ。


海軍は大西さんに全責任を負わせ、
大西さんは命令したくないので
命令ではなく、提案として出した、
ということのようです。


神風特攻隊は
「命令ではなく志願による」
として公表しています。



フィリピンの東方海域で
凄絶(せいぜつ)な戦いが展開されました。


レイテ沖海戦はほぼ全滅します。


昭和19年はこうして
惨憺(さんたん)たるかたちで終わり
昭和20年に入っていきます。



ここまで読んでみますと
800キロでコンパスを描いて
進んでいたときは良かったのですが
調子に乗って
1000キロ先のガダルカナル島に
してしまったのが失敗でした。


なぜここまで
すぐに警戒心がゆるみ
油断してしまうのでしょう。
ここでもまた、
調子に乗って失敗します。



カダルカナル島の失敗を
「転進」という言葉でごまかし、
天皇に転進先を聞かれ
とっさに答えたニューギニア。


失敗を隠し
責任逃れから嘘をついた結果、
終戦まで15万人以上の兵が
ニューギニアで亡くなったのです。
日本軍側だけで
これだけ亡くなったとすると、
アメリカ側も含めると
相当な数の人が
亡くなったことになります。


一部の人間の無責任な言動で
たくさんの人の命が亡くなるなんて
これはひどいことです。


これは国のために
亡くなったのではなく、
一部の人間の虚栄心を守るために
亡くなったようなものです。


国の為にと信じて戦った兵たちは
これでは報われません。
愚かにもほどがあります。
非常に残念です。



インパール作戦も
これまたひどいです。
国内の人気取りと
勲章欲しさに
意味のまったくない進軍をし、
多くの人々が亡くなるのです。


なぜ、一部の人間の
精神を満たすために、
評価のために、
多くの兵が犠牲にならなければ
ならないのか。


本来、国民の命を
守らねばならない立場の人間が
それを道具として利用する。


人の命は
政治家や軍人の
心を満たす道具ではありません。


このような行為は
政治家や軍人の存在意義を
自分で消しているようなものです。
誰もその行為は評価しません。



神風特攻隊は


「命令ではなく志願による」


となっているようです。


海軍が考えたけれど、
責任は負わず、
大西さんへ全てまかせ、
大西さんも現場の判断にまかせます。


現場の判断で
この作戦は実行されます。
責任をすべて現場に押し付けたのです。


この流れはまさしく
現在、日本で起きている
原発再稼働問題と同じです。
責任をすべてその地域に
押し付けているのです。


最悪の事態がまた起こった時
責任やそのリスクを
その地域が負うことが
できるでしょうか。


あまりにも大きすぎて
それはできないでしょう。


山本五十六は


「自分が命令できない作戦は
行ってはならないのである」


と言っています。


つまり、
最悪の事態が起こった時の
その責任とリスクを負えないならば
やってはいけない、ということです。


当たり前と思われるかもしれませんが、
それができていないのが日本なんです。


ただし、
日本人の場合、
そこにある責任やリスクを知らないまま
隠れた問題を見つけられず、
やってしまう場合が多いのでは
ないでしょうか。


これは
よく考えずに
やってしまうからです。
目先のことでしか判断しないクセを
無くす努力が必要のようです。


本来、
大きな影響力を持つ道具を使う場合、
そのリスクを様々想定し、
最悪の事態が発生したときに
最終手段として
その力を無効化する技術や対策を
ハード、ソフト両面で
同時に開発しておかなければなりません。


簡単に言ってしまうと
毒と解毒剤のような関係でしょうか。


これがセットで出来ない場合、
世の中に出してはいけません。
多くの人の命が関わるならば
なおさらです。


責任とリスクを負うことが
できないならば
やってはいけないようです。



ルーズベルトの無条件降伏の宣言で
日本は徹底抗戦を
することになりました。
追い込まれ
逃げ道がなくなった日本は
前に進むしか無くなった
ということのようで、
追い込みすぎることは
やはりやってはいけないようです。



現在、イスラエルと
パレスチナの戦いが
続いており、
憎しみの連鎖が続いております。
これは追い込めば追い込むほど
悪化します。


どういう手段で
戦いが終わるのかわかりませんが、
どんな形で終わったとしても
その憎しみの連鎖は
切れることはないでしょう。
葉や茎を取り除いても
憎しみの根が存在するかぎり、
いつか芽を出すことでしょう。


この根は取り除くことは難しく、
取り除こうとすれば
別のところへ根を伸ばし、
芽を出すでしょう。


ですから、
その根から
攻撃性のない花を咲かせるような
環境を作らねばなりません。


どんな形で終わるにしろ
終わったあとに必要なのは


市民の安全の保障
復旧、復興
経済支援
人道支援
問題となっている
壁の撤去およびトンネルの封鎖


これらは最低限となるでしょう。


壁はいけません。
これがはじまりです。
これがある限り、
また同じことが
起こるのではないのでしょうか。
経済や交流を遮断したことで
自由を奪い、
隔離政策をした結果、
人間としての
存在意義を傷つけ
反発する心の温床となり、
交流遮断は
関係悪化を深刻化させ、
一触即発の状態を作ってしまった。
壁を作らねば
トンネルも作る必要も
なかったのですから
壁が状態悪化の原因であることは
あきらかです。


壁は見える形で
お互いの関係の象徴となっていますので
取り除く必要があります。


市民を最優先に
対策を打たなければなりません。


これらの条件を満たすには
どのような約束をしたら
よいでしょうか。


対話でなく、
武力により決着すれば
いずれ、同じことが
未来で起こるでしょう。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第15回

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