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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第12回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

IMGP1224.jpg


日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】

【第9回】 【第10回】 【第11回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第11章
四つの御前会議、
かくて戦争は決断された


昭和15年(1940)11月末頃に
話は戻ります。


アメリカから
ウォルシュとドラウトという
2人の神父が日本にやって来ます。
産業組合中央金庫の
井川忠雄理事に会い、
井川さんを介して
11月末、近衛首相にも
会うことになります。


なぜ会うことになったかというと
「日米国交打開策」を
携えてきたからです。
12月はじめ、
陸海軍の首脳にも
会うことになります。


その案は
「ルーズベルト大統領と
近衛首相とが、
太平洋沿岸のアラスカまたは
ハワイで会見し、
日米両国間の懸案を
一挙に調整する」
ことをうたったものでした。


その前提条件として
ヨーロッパ戦争に対する
日米両国の態度、
日中戦争の解決策、
日米通商問題
などが挙げられました。


陸軍軍務局長の
武藤章少将は
俄然、乗り気になります。


当時欠員だった
駐米大使として
海軍大将野村吉三郎(のむらきちさぶろう)
を選びます。
アメリカ勤務があり、
現地に友人も多く、
信頼も築いていたからです。


この人事によく思わない人がいました。
外務省の人たちです。


昭和14年9月の阿部信行内閣の
外務大臣となったとき
外務省大改革をやったからです。
その反発を受けます。
アメリカと通商航海条約の交渉を
グレー駐日大使としているとき
外務省はそっぽを向き、
固まります。
おかげで交渉はうまくいかず、
日米通商航海条約は廃棄となります。


そのような過去があったので
野村さんは外務官僚にとって
目の仇といっていい。
その人が駐米大使になるなど
許すべからず人事で、
人事には口出しできませんから
サボタージュで迎えます。
日米交渉がスムースに
いかないようです。


IMGP1225.jpg


野村さんがアメリカに赴任したのは
昭和16年4月1日です。


ワシントンに着き、
大使館員を集めてあいさつをし、
日米関係をなんとか元に戻し
荒立っている太平洋の波を
しずめたいと
言って聞かせました。


コーデル・ハル国務長官は、
野村大使に提案しました。


「今日のように険悪な状態のときに、
日米両国のとちらかが、
国交調整の主導権をとることは
適当でない。
ところが、ここに幸いにも
三人の愛国者
(ウォルシュ、ドラウト両神父と
日本陸軍の岩畔豪雄(いわくろたけお)中佐)
によって作成せられた試案がある。
日米両国はこれを基礎として
交渉をはじめてはどうだろうか」


昭和16年4月5日
日米諒解案(りょうかいあん)の
第一案ができます。


昭和16年4月16日
最終案がまとまります。


昭和16年4月17日
最終案を日本へ。


昭和16年4月18日
日本に届きます。


近衛首相は大歓迎し、
陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長
軍令部総長も賛成。


しかし、近衛首相は
松岡外相の意見も聞こうとします。


昭和16年4月22日
松岡外相は
日ソ不可侵条約(日ソ中立条約?)
のお土産を持って
立川の飛行場につきます。
近衛さんは、
松岡外相の同意をとりつけるつもりで
わざわざ迎えに行きます。


松岡外相は


「そんなこと聞いている暇はありません。
これから日比谷で行われる
私の歓迎国民大会に出席しますから、
後でうかがいます」


近衛さんは仕方なく、
移動の車内で丁寧に説明させるよう、
大橋忠一外務次官を
松岡外相の車に同乗させました。


大橋外務次官から説明を聞いた
近衛外相は


「そんな2人の神父が
もってきたような、
正常なルートでもない案を
どうして信用するのか。
愚劣にもほどがある。
これは陸軍の陰謀だ。
わが外務省はこのような
くだらない案に乗ることは
できない、だめ!」


と突っぱねました。
日米諒解案は、
松岡外相の猛反対によって
すっ飛んでしまいました。


そんなとき
ドイツがソ連に進攻。
この新しい事態に向って
日本はいかに進むべきか
「大本営政府連絡会議」
のちの
「最高戦争指導会議」
が開かれます。


松岡外相は


「直ちにソ連を攻撃せよ」


と言って驚かせました。


軍部は南進論を唱えます。


揉めた結果
両方の意見をとると
いうことで合意して
昭和16年7月2日
第一回の御前会議が開かれました。


御前会議というのは
天皇の前で内閣と軍部が
一緒になって、
日本の国がとるべき大方針を
決める国家最高の会議です。


天皇陛下は一言も発言しません。
意見を聞くだけで、
それを嘉納あらせられる、
つまり承知するという、
建前です。


そのために、
政府も軍部も前もって、
大本営政府連絡会議で決めたことを
天皇陛下に報告し、
了承をとっておくという
手続きをとります。


その時には天皇もいくつか発言し、
意見を述べ、
それを加味して内容が
少しは訂正されることもありますが、
ほとんどはそのまま
御前会議に持ち込まれます。


したがって
御前会議は一種の儀式のようなものです。


「帝国は大東亜共栄圏を建設し……
支那事変処理に邁進し、
自存自衛の基礎を確立するため、
南方進出の歩をすすめ、
また情勢の推移に応じ、
北方問題を解決す」


松岡外相の強硬な主張に乗っかりながら
南へは進出する。
北も場合によってはやろうじゃないか、
というのです。


「本目的達成のため
対英米戦を辞せず」


国家として戦争決意を公式なものとした、
運命的な決定であったと思います。


アメリカは
ドイツ、イタリア、
ワシントンの大使館に打電した
秘密電報はすべて傍受解読して
いたようです。


昭和16年7月23日
北部仏印進駐でとどまっていた軍隊を、
南のサイゴンおよびその近辺に
移動させる、あるいは
船で海から上陸させることを
決定します。


昭和16年7月25日
日本の在米資産をすべて凍結。
イギリス、フィリピン、ニュージーランド
オランダもこれに続き、
日本の資産は凍結。


昭和16年7月28日
南部仏印上陸を開始。


昭和16年8月1日
アメリカは石油の対日輸出の全面禁止。


8月7日
内大臣の木戸さんの書いた
木戸日記には


「油は海軍が二年量としても
戦争すれば一年半しか無いという、
陸軍は一年くらいとのことだ。
そこで結論からいえば、
右が事実なりとすれば、
到底米国に対して
必勝の戦いをなすことは
できないというほかない」


と書かれています。


山本五十六は上京し、
中央に厳重な抗議をしました。


「こんな重大なことを
艦隊長官の考えも聞かずに
簡単に決め、
万一戦争になって、
さあやれといわれたって勝てません」


永野修身(ながのおさみ)軍令部総長


「政府がそう決めたんだから
仕方がないだろう」


と言ったそうで
7月29日天皇にこう言います。


「物がなくなり、
逐次貧しくなるので、
どうせいかぬなら
早いほうがよいと思います」


石油の輸入禁止で日本は
どんどん貧しくなる、
どうせうまくいかないのなら、
早く戦争したほうがいいのではないか、
というのです。


天皇陛下は
「戦争となった場合、
日本海海戦のような大勝は困難だろう」
(日露戦争のこと)


永野修身
「日本海海戦のごとき大勝はもちろん、
勝ちうるかどうかもおぼつきません」


と海軍の全作戦を統轄する人が言いました。


例の石川信吾中佐は


「石油を止められれば戦争だよ」


日米諒解案は吹っ飛び、
野村とハルの地道な交渉もダメになり、
日米交渉は中止となります。


8月15日
山本連合艦隊司令長官は、
全艦隊に電報命令を発しました。


「連合艦隊は……すみやかに戦備を完了し、
時局の急変に備えんとす」


この時、真珠湾攻撃作戦を
本気で考えています。


9月5日
大本営政府連絡会議
一、米英に対して戦争準備をする
二、これと併行して日米交渉を進める
三、10月上旬になっても日米交渉成立の
  <目途なき場合は>英米に対し戦争を
  辞せざる決意をする


天皇は


「これを見ると、
まず第一に戦争準備を記し、
二番目に外交交渉を
掲げているではないか。
なんだか戦争が主で、
外交が従であるが如く感じられる。
これじゃあいかんのでは」


近衛さんは
あやふやな答弁をします。
天皇は納得せず
杉山参謀総長、永野軍令部総長を
宮中に呼び出しました。


天皇
「日米に事が起これば、
陸軍としてはどのくらいの期間で
片付ける確信があるのか?」


杉山
「南方方面だけは三カ月で
片付けるつもりであります」


天皇
「杉山は支那事変勃発当時の
陸軍大臣だそ。あの時、
陸軍大臣として、
事変は一ヵ月くらいにて片付く、
と言ったように
私は記憶している。
しかしながら四ヵ年の長きにわたり、
まだ片付いていないではないか」


杉山
「支那は奥地が開けており、
予定通り作戦が
うまくゆかなかったのであります」


天皇
「なに?支那の奥地が広いというなら、
太平洋はもっと広いではないか。
いかなる確信があって
三ヵ月と申すのか」


杉山参謀総長はまいってしまいますが、
永野軍令部総長が助け船を出し、
質疑は終わります。


9月6日
第二回御前会議


「戦争を辞せざる決意のもとに」
もういっぺん対米交渉をやり直し、


「十月上旬頃に至るもなお
我が要求を貫徹し得る
目途なき場合においては、
ただちに対米開戦を決意す」


近衛さんはワシントンの野村大使を通し
アメリカと交渉しますが、
断られます。


10月16日
十月上旬を過ぎ、
事態が進まないことを閣議で
問い詰められ、
近衛首相 辞表提出。


10月18日
東条英機内閣成立。


11月2日
大本営政府連絡会議


賀屋興宣(かやおきのり)蔵相
「私はアメリカが戦争をしかけてくる
公算は少ないと判断する。
結論として、戦争を決意することが
よいとは思われない」


東郷茂徳外相
「私も米艦隊が攻勢に来るとは
思わない。
今、戦争をする必要は
ないと思う」


永野修身軍令部総長
「来たらざるを恃(たの)むことなかれ、
という言葉がある。
先のことは一切不明だ、
安心はできないのだ。
三年たてば南の防備は
強くなる。
敵艦も増える」


賀屋興宣(かやおきのり)蔵相
「ならば、いつ戦争をしたら勝てるのか」


永野修身軍令部総長
「今!戦機は後には来ない。
今がチャンスだ」


天皇陛下はこの結論の報告を聞くと、
たいへん悲痛な表情で、
首相と陸海軍総長に念を押すように
言いました。


「日米交渉を極力続けて目的が
達しえられない場合、
米英と開戦しなければならないのかね」


「事態が今日のようになれば、
作戦準備をさらに進めることは
やむを得ないとしても、
なんとか極力日米交渉の
打開をはかってもらいたい」


11月5日
第三回御前会議


事実上、
太平洋戦争の開戦を決定づける会議
となります。
どなたの発言をみても、
すでに日米交渉の不成立を
確信しているようなのです。


原枢密院議長(はらすうみついんぎちょう)
「今を措(お)いて戦機を逸しては、
米国の頤使(いし:アゴで使われる)に屈するも
已むないことになる。
従て米に対し開戦の決意をするも
已むなきものと認む。
初期作戦はよいのであるが、
先きになると困難を増すが、
何とか見込みありと(軍部が)云うので、
之に信頼す」


野村大使に送られた電報は
傍受されていました。


コーデル・ハルは『回想録』に
「ついに傍受電報に交渉の期限が
明記されるにいたった。
……この訓電の意味するところは
明白であった。
日本はすでに戦争機械の車輪を
回しはじめているのであり、
11月25日までにわれわれが
日本の要求に応じない場合には、
アメリカとの戦争も敢(あ)えて
辞さないことをきめているのだ」


11月15日
大本営政府連絡会議


戦争終結の条件


一、初期作戦が成功し、
自給の途(みち)を確保し、
長期戦に耐えることができた時


二、敏速積極的な行動で重慶の
蒋介石が屈服した時


三、独ソ戦がドイツの勝利で
終わった時


四、ドイツのイギリス上陸が成功し、
イギリスが和を請うた時


ドイツが勝つことをあてにしています。


11月26日午前6時
南雲中佐指揮機動部隊
千島単冠湾(ちしまヒトカップわん)より
ハワイに向けて出撃。


数時間後、ハル・ノート提出。
これがアメリカ最終的返事。


一、中国およびインドシナ(仏印=ベトナム)
からの日本軍および警察の完全撤去
(日本占領地放棄)


二、日米両国政府は中国において
重慶(蒋介石)政権以外の政権を認めない
(汪兆銘政権否定、満州国解消)


三、日米両国政府は中国における一切の
治外法権を放棄する
(中華民国から出ていく)


四、第三国と締結した協定を、
太平洋地域の平和保持に衝突する
方向に発動しない
(日独伊三国同盟を余計なことで守らない)


満州事変前に戻れということです。
アメリカは日本と話をつける気など
なかったようです。
これを提出した後、
ハル長官はスチムソン陸軍長官に、
「おい、これからは陸海軍の番だぞ」
と言ったといいます。


12月1日
第四回御前会議


戦争することを決定します。


12月2日
山本連合艦隊司令長官
全軍に暗号による命令。


「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
開戦、12月8日に決定。


12月5日
ドイツ、
ソ連の猛烈な反撃を受けて退却開始。
日本は知らず。



昭和16年12月8日


戦争に突入。



ここまで読んでみますと
日米国交打開策、
日米諒解案を
松岡外相がはねのけてしまったのが
痛いです。
この著書では
松岡外相は日ソ中立条約と同じように
この問題も自分が解決したいがために
はねのけたのではないか、
という趣旨のことを書かれています。
自分の手柄を増やしたいがために
行ったとすると
やはり、精神面を満たしたいがための
行動であり、
ノモンハンの勲章欲しさの
精神的仕組みと同じです。
これは松岡外相が調子に乗りすぎた結果、
戦争回避の最後の手段を
手放してしまった、
ということのようです。


調子の乗りすぎたせいか
第三次近衛内閣では
松岡さんは組閣から外されます。


今回の流れを見ますと
この当時の日本政府は
アメリカとはぶつかりたくない
という意識があったようで
戦争がおこることになったのは
追い込まれた結果
戦争しか手段がなくなった
ということのようです。


海軍なんかは
陸軍と違って現状把握や
分析ができていて
戦えば勝てないことは
わかっていたにもかかわらず
結果として戦わざる得ない状況に
なってしまう。


石川信吾中佐の
「石油を止められれば戦争だよ」


というのは
それをあらわしていて
石油が止められたことが原因で
窮鼠猫を噛む的な行動です。
この例からも
追い込んではいけない、ということが
わかると思います。


日本は石油のほとんどを
アメリカに依存していたことが
日本の弱点となりました。
外交のカードに使われ
経済封鎖、経済制裁にも
使われます。
石油が原因で
戦争が起こったわけです。
依存体質は
弱点と見ることができます。


現状の日本は
石油の輸入を
8割を超えて中東に依存しています。
これは怖いです。


中東とは良好な関係とはいえ
中東とは意図していない
別な要因で
石油が入って来なくなることも
考えられます。
海峡封鎖というのは
石油が入って来なくなる
たくさんある想定理由のひとつにすぎず、
根本的な問題は
石油の中東依存です。


この依存問題は
前から指摘されているようですが、
どうなっているのでしょうか。


少し調べてみますと
日本は
1967年に石油の中東依存が9割を超えます。
オイルショックなどの問題もあって
石油を安定して
確保するための取り組みを進めた結果
中東依存は7割を下回ります。
1987年には67.9%です。


けれどエネルギー消費量増加にともなって
再び8割を超えているのが
現状のようです。


中東依存から分散する動きはあるものの
希望的な推測があり、
明確ではなく、
方向性だけであり、
ぼんやりした印象です。
対策を打てないのか
意図的に打たないのか
よくわかりませんが、
現実的な対策は講じていません。


依存度をさげるとして
そのときの中東との関係構築も
課題となってくるでしょう。
世界の流れとして
脱石油の動きがありますし、
石油は化石資源であり
いつか枯渇します。
世界が見捨てるような
動きをすれば
新たな火種になる可能性があります。


もし、何らかの理由により
石油が中東から輸入できなくなった場合の
対策はあるのでしょうか。
石油備蓄や共同備蓄など
備蓄対策はしていますが、
備蓄ではまかえないくらいの
期間が出てきたとき
どうするのでしょうか。


中東依存は日本だけでなく、
様々な国が依存しているが、
中東から輸入できなくなったとき
他の地域からの奪い合いとなることが
想像できますが、
そのときはどうするのでしょうか。


最悪時の想定が
なされているのでしょうか。
安全神話に
影響されていませんでしょうか。


人間のすることに
絶対というのは
ないと思ったほうが
よろしいかと思います。


大震災経験から
苦労した経緯もあるので
シビアになってしまいます。


大変かと思いますが
1000年に1度やってくるような問題の対策も
考えなければならないということです。


エネルギーついでですが
核エネルギーという手間がかかり
解決できない問題を抱え、
潜在的リスクやコストの底が見えないような
爆弾のような存在は
正直手放したいところです。


人の歴史の中で
核の登場は早すぎたのかもしれません。
道徳的、倫理的価値の成熟がされず、
技術も追い付いていないのですから。
禁断の果実のひとつだったのでしょう。


問題解決の技術が確立されてない
核エネルギーは
未来を担保にした
博打エネルギー
といえるかもしれません。


ですから
核を使いたがる人は
自己利益しか考えず、
まわりや未来はどうでもよい、
というあらわれですから
非難の対象として
映ることでしょう。


リスク管理という概念が
浸透しはじめておりますから
そのあたりも
意識しなくては
ならない時代となったようです。


逆に言えば
安全は価値となります。
これは日本の性格上、
手を抜かなければ
得意分野のはずです。


日本人は
安全にはコストがかかる、
安定はタダではない
ということを知ることです。


潜在的な問題を
見える形にする、というのが
課題となります。



この当時の日本の外交というものは
アメリカとはとても対抗できる
レベルではなく、
残念ながらそれは今でも
苦手なようです。


日英同盟も
アメリカの巧みな外交によって
廃棄されたという過去もあります。


これはなんとなく感じていることで
ございますが、
アメリカというのは
資本主義ということもあり、
自己利益の追求の仕方が強烈で
その手段、手法は選ばないようです。


今、アメリカが嫌なことのひとつは
アジアが一致団結されることです。
情勢が不安定になるのは困るが、
手を組まれて、脅威となるのも困る。
大きくなり過ぎず、
小さくなり過ぎず、
生かさず殺さず、
力の拮抗でお互いを牽制した
バランスをつくることで
コントロールしていく
ということなのでしょう。


向こうの国の言葉で
パワーバランス
というのがありますが、
それはその考え方を現した言葉では
ないでしょうか。


パワーバランスをいかにつくるか
その価値観のもとに
動いているように見えます。
それが安定をつくる
という考え方のようです。


自国の利益の脅威になるものには
早め早めに手を打っていく。
そういうクセを持った
友であると
思っています。


あまりにも目に余る
他に配慮がない
自己利益の追求に対しては


「ちょっとやりすぎではないか」


と言えるくらいの
関係性と対等性に
なってほしいところです。



ちなみに
中国も利益に対しては
シビアです。
やり方はアメリカと違って
直接的で強引ですが、
相手の立場を理解し、
どういうところに
お互いに利益があり不利益があるのか
相手の面子に配慮しつつ、
丁寧に説明し、
納得できる理屈があれば
損得の判断はできる国ですから
開けるかもしれません。


向こうの言葉で


「道理」


というものがあります。


何よりも
現実的な利益を重視するようですので
そのあたりを共有できるかどうかが
鍵となるかもしれません。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第13回

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