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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第10回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

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日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

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【第9回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第九章
なぜ海軍は三国同盟を
イエスと言ったか


昭和14年9月(1939)
第二次世界大戦が始まりました。


日本では
昭和15年1月に
阿部信行内閣が倒れ、
かわった米内光政内閣は
はじめから大不評でした。


民政党 斎藤隆夫代議士は
陸軍に食ってかかります。


「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて
国民的犠牲を閑却し、
いわく国際正義、
いわく道義外交、
いわく共存共栄、
いわく世界平和、
かくのごとき
雲をつかむような文字を並べ…」


政策批判をしたうえで、
陸軍に詰め寄ります。


「支那事変がはじまってから
2年半になるが、
10万の英霊を出しても解決しない。
どう戦争解決するのか処理案を示せ」
(支那事変≒日中戦争)


陸軍は「聖戦の目的を批判した」と
怒って逆に斎藤議員を追い詰めますが


「私は議員を辞任しない、
文句があるなら除名せよ」


と啖呵をきると、
陸軍は本当に斎藤議員を除名しました。


議会最後の抵抗。


政党が有効性を失った、
象徴的な出来事でした。


畑俊六陸軍大臣は
「閣僚として責任を果たせない」
と辞表を提出します。


代わりを出すように陸軍に頼みますが、
拒否されます。
陸軍が大臣を出してくれない以上、
米内内閣は辞職せざる得ませんでした。


「軍部大臣現役武官制」により
現役軍人でないと陸軍大臣には
なれませんので、
陸軍が拒否すると
陸軍大臣は誰もなれません。


米内内閣は倒れ、
次は近衛さんがまた出てきます。


昭和15年7月22日
近衛文麿内閣が誕生です。
反英米主義、他人の話を聞かず、
自分の意見を頑固に押し通す人です。


当時の内閣書記官長を務めた
富田健治の回想録には


「組閣早々近衛首相の考えを
支配していた問題は、
三国同盟と政治新体制問題であり、
その他は馬の耳に念仏であった。
そして近衛首相は独伊問題は
単なる政治協定でなしに、
軍事同盟にまでいくと考えていた」


日独伊三国同盟を
軍事同盟として結ぶこと、
政党を解党して
一元的で強力な新体制
後の大政翼賛会(たいせいよくさんかい)
につながるものを
つくることしか考えていませんでした。


外務大臣には
松岡洋右(まつおかようすけ)が
就任します。
反英米派です。
(国際連盟脱退時の全権大使)


近衛さんは声明を出します。


「アメリカが日独伊のそれぞれの
立場と地位を認めるにおいては、
日独伊三国もアメリカ大陸における
米国の主導的地位を
認めることになるわけである」
(アメリカが日独伊の地位を
認めるならば
こちらもアメリカの地位を
認めてやってもよい)


「米国は日本の真意をよく理解し、
世界新秩序建設の大事業に
積極的に協力すべきであると思う」
(世界新秩序:
ドイツのヨーロッパ新秩序
日本のアジア新秩序、
アメリカはアメリカ大陸だけの秩序、
それぞれの地域だけやろう)


「米国があえて日独伊三国の
立場と真意を理解せず、
あくまでも同盟をもって
敵対行為として
挑戦してくるにおいては、
戦うことになるのはもちろんである」
(アメリカがやる気なら
三国同盟で戦うよ、と
戦争やる気十分)


陸軍省や外務省は
親独の同盟論者が増え続けました。


昭和15年9月14日午前
大本営政府連絡会議


昭和15年9月16日
臨時閣議


昭和15年9月19日
御前会議


あっというまに
日独伊三国同盟が国策として
決定しました。


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今まで反対していた海軍は
「現下の局面を打開するには
他の名案がない」
として
「政府に一任する」
と明言してしまいます。


なぜ、海軍は賛成に変わったのか。


山本五十六が
暗殺を避けるため
連合艦隊司令長官として
海に出ましたが、
そのかわりに海軍大臣になった
吉田善吾の周りにいたのは
親独にして、対米強硬派でした。


アメリカが
日米通商航海条約を廃棄したばかりか、
ルーズベルト大統領は、
石油や屑鉄などの
日本への輸出を政府の許可制にしました。


いくら軍艦があっても
燃料がなければ動かせません。


ならば万一に備えて
鉄や石油などがとれる
東南アジアのジャワ、スマトラ、
ボルネオといった
資源地帯に進出し
資源を確保する必要がある、
それにはどうしても
仏印(フランス領インドシナ三国
現在のベトナムなど)
まで兵力を進出させておく必要がある、
いざとなれば
そこを基地にして
アメリカの根拠地フィリピンを
叩かねばならない。
しかし南進をあらわにすると
アメリカは怒って
日本への輸出を全面禁止とするだろう。
ならばいっそう開戦に備えて
油田獲得のため
オランダ領東インド(インドネシア)
を占領するほかない。
となると、対米戦争は必至…
という堂々めぐりの結果、
現在のベトナムへの進出の
必要性が出てきたのです。


吉田海相は
「ドイツと同盟を結ぶことは
イギリスひいては
アメリカと敵になることであり、
亡国への道だ」
となかなか承知はしません。


海軍強硬派は
内部から揺さぶりをかけます。


部内で浮いた吉田海相。
眠れない夜が続きます。
吉田の戦後の手記には


「八月下旬に至り連日にわたり下痢を
催すことあり、精力の減退少なからず感ず。
時々頭痛を覚え、夜中に寝汗を催すこと
しばしばであった……」


半分ノイローゼでした。
自殺まで考え、その機を得ず
逆に消耗して倒れてしまったようです。


吉田さんは任に絶えず、
辞めさせられるのと近いかたちで
辞任しました。


その後、海軍首脳会議は
日独伊三国同盟を結ぶことを
賛成しました。


昭和15年9月14日に
海軍が三国同盟に賛成を表明したとき、
昭和15年9月15日
ドイツとイギリスは戦っていました。


イギリスは抗戦します。
「バトル・オブ・ブリテン」と称される
英本土防衛最大の戦果につながる日です。


ドイツは
戦闘機700機、爆撃機400機に対し
イギリスは
戦闘機約300機で迎え撃ちます。


ドイツは補給のため
往復しなければならないのに対し、
イギリスは自分の国の上空で戦っているので
いちいちドイツのように戻る必要はなく
有利な状況でした。


戦闘機の性能も
イギリスのほうが上で
ドイツの花形パイロット
撃墜王ガーランド少佐は
どんな戦闘機があれば勝てる、
という質問に対し


「英空軍のスピットファイアが欲しい」


と言ったようです。


イギリスは勝利します。


そんなことは日本海軍は知りません。
イギリスがヒトラーの野望を打ち崩したとき
日本はそのドイツと同盟を結ぼうと
決めたのです。


昭和15年9月16日
臨時閣議後、
近衛首相は昭和天皇に報告します。


天皇は


「この条約は非常に重要な条約で、
このためアメリカは日本に対して
すぐにも石油や鉄屑の輸出を停止
してくるかもしれない。
そうなったら日本はどうなるか。
この後長年月にわたって
大変な苦境と暗黒のうちに
おかれるかもしれない。
その覚悟がお前にあるかどうか」


「アメリカに対して、
もう打つ手がないというなら
致し方あるまい。
しかしながら、万一にも
アメリカとことを構える場合には、
海軍はどうだろうか。
海軍大学校の図上演習では、
日本海戦は思わしい成績がでない、
と聞いているが大丈夫なのか」


海軍大学校では図上演習規則に基づいて
アメリカと戦う場合の演習を
図上でやっているのですが、
何十回やっても
日本海軍は一遍も勝ったことがなく、
いつも日本艦隊は
土佐沖まで追い詰められ、
演習中止ということに
なっていたようです。


近衛首相は
「今後は日独伊ソ四国同盟になり、
それは日米戦争防止に
非常に役立つのですから大丈夫です。
同盟を締結しないほうがかえって
日米開戦の危険は大きいのです」
(ドイツはソ連と
不可侵条約を結んでいました。)


天皇は
「しかしながら、ドイツやイタリアの
ごとき国家と、このような緊密な同盟を
結ばねばならぬことで、
この国の前途はやはり心配である。
私の代はよろしいが、
私の子孫の代が思いやられる。
本当に大丈夫なのか」


近衛さんは、伊藤博文の話を思い出し、
「日露戦争開戦が御前会議で決まりました時、
明治天皇は伊藤公を別室に呼び、
『もし敗けた時はどうするつもりか?』
とたずねられました。伊藤公は
『万一にも敗れました場合には、
巨は爵位勲等すべてを拝辞し、
単身にて戦場に赴いて射ち死に
致す覚悟でございます』と奏上されました。
近衛もまた同じ覚悟でございます」


天皇は
「日米戦争が起こり、
万一のことがあった時には、
近衛は、私と憂いをともにせよ。
三国同盟のこと、今日の場合は
やむを得まいと思う」


天皇は賛成ではなかったのですが、
了解します。


昭和天皇独白録に


「三国同盟について
私は秩父宮と喧嘩して終わった」
「私がもし開戦の決定に対して
”ベトー”(拒否)したとしよう。
国内は必ず大内乱となり、
私の信頼する周囲の者は殺され、
私の生命も保証できない、
それはよいとしても
結局狂暴な戦争は展開され……」


と書かれています。


内乱が起こり
自分は押し込められ
代わりの者が天皇となって
それを操って軍部は思い通りの
強硬政策に持っていく、
という怖れがあったのではないか、
と著者の半藤さんは書いています。



9月17日、ドイツでは


「B軍団は本日付をもって
東方に移動すべし」


という重大決定をします。


B軍団とは
イギリス本土上陸作戦の
先陣をきるはずの
基幹兵力、最強力部隊です。
英本土上陸作戦は放棄され
ソビエト進攻となります。


日本は
日独伊ソの四国同盟で
英米に対抗する


という考えは
すでに無理であったようです。



ここまで読んでみますと


まず、議論がまともにされず
陸軍の力でねじ伏せられています。


そしてこの時も政府は
なにやら似たような言葉を
並べていたのです。


国際正義
道義外交
共存共栄
世界平和


武力行使の
常套句なのでしょう。


都合が悪くなると
力でねじ伏せるなんて
なんとも残念です。
悪政、暴君の
よくあるパターンです。


議論、話し合いが行われず
逃げる、ということは
本人たちも都合が悪い、
筋が通らないことを承知している
ということでしょう。


国がダメになる指標のひとつ
のようです。



アメリカが
石油や屑鉄など輸出を許可制
にした結果
南進するはめになり、
のちに戦うことになるのですが、
孤立した国(この場合は日本ですが)
を追い詰めることは
暴走する可能性がある、
ということでしょう。
状況判断をせずに
都合のよい解釈で
突き進んでしまいます。


三国同盟を決めた時
同盟先であるドイツは
イギリスに敗れていたとは
なんとも皮肉なものです。


今も昔も
情報収集や解析は
得意ではないようです。


ここが弱いということは
外交でも相手に
先手を取られてばかりですから
弱いことを意味します。


相手とのやりとりにおいて
情報がいかに重要か、
相手を知ることがいかに重要か、
他国はみな知っているのですが
日本はそれよりも
自分の気持ち、心を重視しています。


日本人は
交渉事が得意では
ないようですが、
このあたりに理由がありそうです。


議論(ディベート)することに
慣れていない、
ということもあると思いますが
単一民族ということも
関係があるのでしょうか。
島国で他国と
接することがなかったことも
関係があるでしょうか。
議論しなくても
やってこれた環境にあった、
ということかもしれません。


同じ価値観に従って
やっていれば
議論する機会も
他国とは少ないはずです。


逆に言えば、
お互いが知っていれば
相手の価値観を知っていれば
争いは少なくなる、
あるいは避けられる、
ということではないでしょうか。


知ることの大切さ。


ここにポイントがありそうです。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第11回

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