スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

日本人は調子に乗るとダメになるらしい第9回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

IMGP1224.jpg


日本人は調子に乗るとダメになるらしい【第0回】

【第1回】 【第2回】 【第3回】 【第4回】

【第5回】 【第6回】 【第7回】 【第8回】


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第八章
第二次大戦の勃発が
あらゆる問題を吹き飛ばした


ここでは、
ノモンハン事件時の国内事情、
外交、国政のことが書かれています。
(ノモンハンは昭和14年5月~8月です)


近衛内閣がうまくいかなくなったのも
政友会、民政党、社会主義党など
批判政党がちゃんとあったからです。


近衛内閣は総辞職し、
平成14年1月5日
平沼騏一郎内閣が発足します。


じつはナチス・ドイツから
日独伊三国同盟が提案されていて
外交的大問題となっていました。


これに待ったをかけたのが
海軍大臣米内光政、
同じく次官の山本五十六、
軍務局長井上成美(しげよし)でした。


5人の閣僚
総理大臣、外務大臣、大蔵大臣
海軍大臣、陸軍大臣
を集めた五相会議を
70回以上開きました。


山本次官は文書で回答を求めています。


「一、独伊との関係の強化は、対中国問題処理の上
かえって対英米交渉に不利にならずや」


「二、日独伊ブロックに対し、米英仏が経済的圧迫を
なした時の対抗策ありや」


「三、日ソ戦の場合、独より実質的援助は
期待せられざるべく、かく実質なきものは
結局無意味にあらざるや」


「四、本条約を締結するとせば、
独伊に中国の権益を与えざるべからざるに
至るなきや」


この時はまだかろうじて
正常を保っている時でしたが、
これ以後、狂いはじめていきます。


陸軍は英米ソ連と対抗するためにも
ドイツ同盟は賛成でした。


同盟推進派の人たちは
脅迫状をいくつも送るのですが、
海軍トリオは一歩も引きません。


山本五十六は


一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ。
あに戦場と銃後とを問はむや。
勇戦奮闘戦場の華と散らんは易し。
誰か至誠一貫俗論を排し
斃(たお)れて已(や)むの難(かた)きを知らむ。
高遠なる哉君恩(かなくんおん)、
悠久なるかな皇国。
思はざる可(べ)からず君国百年の計。
一身の栄辱生死、
あに論ずる閑あらんや。
語に曰く。
丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。
(丹磨くべしその色奪ふべからず、
蘭ひらくべしその香滅すべからずと)
此身滅す可し、此志奪う可(べ)からず


(戦場で死ぬのも内地で銃後で死ぬのも同じだ、
むしろ戦場で弾に当たって死ぬほうが易しい。
自分の思いを貫き、いかなる俗論にも負けず
「たおれてのちやむ」ほうがよほど難しい。
この身は滅んでもいい、
しかし、この志は奪うことはできないのである)


と遺書「述志」に決意が
書かれています。


陸軍は三人を追い落としてしまえと、
海軍省前で部隊演習をすれば、
海軍は兵器、弾薬、食糧をはじめ、
停電に備えて自家発電装置まで整え、
持久戦をも辞さぬと
井戸まで掘ったそうです。


これらはノモンハン事件の最中の出来事です。


IMGP1225.jpg


ノモンハン事件の前に
天津事件というのもあります。


昭和14年4月9日
イギリス租界内で、
中華民国人が日本側に立って
便宜をはかってくれたのですが、
4人の中華民国人に殺され、
イギリス側へ逃げます。
容疑者引き渡しを求めると
イギリス領事館は突っぱねたので
揉め事となりました。


日本は英仏租界を隔離。
電流を通した鉄条網を張り、
身体検査の検問を行い、
時には民衆の面前で素っ裸にして
調べ上げるというような
強硬なものでした。
(租界:中華民国の外国人居留地)


これがきっかけに
日本の新聞が大きく書きますと
反英の空気が高まります。
それと同時に親独感情から
日独伊三国同盟を早く結べ
となります。


イギリスはどうしようもなくなり、
後退に後退をして協定を結びました。


日本は大喜びです。


けれど、アメリカが
日米通商航海条約廃棄を
通告してきました。
アメリカが割って入ってきたのです。


アメリカのコーデル・ハル国務長官は
日本に対してこれから
敵対行為をとることを表明してきます。
強硬路線へと変わりました。


昭和14年8月28日
平沼内閣が総辞職したあと
陸軍大将阿部信行が後継となります。
天皇は厳しい注文を出しました。


「一、英米に対しては協調しなくてはならない」


「一、陸軍大臣は自分が指名する。
三長官の決定がどうであろうとも
梅津か畑のうちどちらかを選任せよ」
(三長官:陸軍最高幹部三役
陸軍大臣、参謀総長、教育総長)


天皇が人事に介入してきました。
あくまで政府の輔弼(ほひつ)に対して
判断を下すのが役目であって、
判断を押し付けることは
違反にも関わらず、
天皇は厳然とします。
(輔弼:天皇への進言)


「一、内務、司法(大臣)は
治安の関係があるから
選任にはとくに注意せよ」


阿部内閣は
陸軍大臣には天皇の注文通り
畑俊六、
海軍大臣は吉田善吾になります。
山本五十六の声もありましたが、
海軍大臣にすると命が危ない、
の声があって、
連合艦隊司令長官として
海に出すことにしました。


世界では
昭和14年9月1日未明、
ドイツがポーランドに進撃を開始し、
第二次世界大戦が始まりました。
ポーランドはあっというまに降伏、
オランダ領に進撃します。


第二次世界大戦勃発で
三国同盟、天津事件はぶっ飛び、
残ったのは
アメリカからの
日米通商航海条約廃棄の通告だけでした。


こうして昭和15年を迎えます。



ここまで読んでみますと
山本五十六の存在感がすごいです。


遺書にある


しかし、この志は奪うことはできない


というのは
オーストリアの精神科医、心理学者
ヴィクトール・フランクルの


「態度価値」


というものでしょうか。


フランクルは第二次世界対戦時
ナチス・ドイツの有名な収容所、
アウシュビッツ強制収容所に入っていました。
明日の命があるかどうかわからない
希望のない過酷が環境の中
生き残る人間とそうでない人間の差はなんなのか
心理学者の視点で観察し、
自分の体験を踏まえて書かれた本
「夜と霧」は英語版だけで900万部を超える
ベストセラーとなりました。


生きる意味を見つける
3つの手がかりとして
3つの価値をあげているのですが、
その中に1つが
態度価値です。


これは
自分では変えることのできない
出来事に直面したときに
どのような態度をとるか。


態度をとることによって
実現される価値のことです。


ほかの全てが奪われても
どのような態度をとるかという
精神的態度の自由だけは
誰にも奪い取ることはできません。


フランクルは
アウシュビッツでそれを見つけました。


変えることのできない現実が
目の前にあったとしても
自分の意思を表明すること、
態度をとることはできますし、
その態度は誰にも奪うことは
できないのです。


これが


「態度価値」


です。


結果だけに価値を置くのではなく
人生の過程、
人生そのものに価値がある、
と見ることができる
心強い価値観です。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第10回

検索フォーム
カテゴリリスト

各アイコンの説明。

カテゴリオープン
カテゴリクローズ
個別カテゴリ
全カテゴリオープン
全カテゴリクローズ

  • plus
  • minus
プロフィール

ウシポニ

Author:ウシポニ

岩手県盛岡市在住。もりおかの中から感じたことを書いております。個人的なブログです。【このブログについて】

お知らせ、メモなど
  • 感想文の更新は終了いたしました。ブログの更新も2016年6月をもって終了いたしました。今後の更新はございません。今までありがとうございました。
最新記事
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。