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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第7回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第0回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第1回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第2回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第3回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第4回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第5回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第6回


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第六章
日中戦争・提灯行列の波は続いたが……


ここでは日中戦争、
陸軍を中心に書かれています。
西安事件、盧溝橋事件、南京事件などです。


まずは、西安事件についてです。
これは昭和11年(1936)
中華民国で起こったことです。


中華民国では
国民政府軍の蒋介石
中国共産党軍の毛沢東(いわゆる紅軍)
が権力闘争を繰り広げていました。


毛沢東、周恩来たちは
内戦を続けていたのでは、
日本に乗ぜられるばかりだから、
抗日民族統一戦線を結成し、
一緒になって日本とあたるべき、
という方針を改めます。


張学良(張作霖の息子、元満州の大軍閥)
は国民政府軍に加わっていたのですが、
共産党に話を持ちかけられ
その方針に賛同し、裏切り行為に出ます。
中国共産党と戦いを控えはじめます。


怒った蒋介石は昭和11年(1936)12月
張学良が軍を布(し)いていた
西安に督促にいきますと
逆に張学良軍の襲撃され、
山上に追い込んで軟禁してしまいます。
これが「西安事件」です。


蒋介石を銃殺する意見もありましたが、
国民党のカリスマ的存在を殺しては
抗日民族統一戦線が結成できなくなる、
となって、
蒋介石に共産党軍への攻撃をやめさせ
手を組む約束をします。


12月26日
蒋介石が無事に南京に戻りますと
大歓声で迎えました。
この瞬間から対日抗戦を可能する
歴史の転換点となりました。


けれど、日本はこれを
対岸の火事として重視せず
軍部は中華民国を
蔑視していた基本姿勢があり、
これと統制派の「中国一激論」が
くっつくようです。


少し戻りますが
日本では
昭和11年4月18日
外務省が日本を「大日本帝国」と
呼称することを決定します。
国民は
日本は大なる国である、と
思い込むようになっていきます。


昭和12年7月7日
盧溝橋事件が起きます。


日本の天津駐屯
第一旅団第一連隊第三大隊が
演習していました。
一木清直少佐が指揮しています。


同じように夜間演習していた
中華民国軍側から
数発の実弾が撃ち込まれます。


その時、大三大隊第八中隊の
兵士が一人、
行方がわからなくなります。
弾に当たって戦死したんじゃないか
という疑いが出てきます。


実際には
立小便をしにいっただけなのですが、
一名行方不明として
真っ暗の中探します。


そこへ
また銃弾が撃ち込まれました。
一木大隊長は捜索の中止を命じ、
「中国側からの敵対行動は確実なり」
と第一連隊司令部へ報告しました。
第一報を受けた
連隊長牟田口廉也(むたぐちれんや)大佐が
直ちに独断命令
「敵に撃たれたら撃て。
断乎戦闘するも差し支えなし」


これが日中戦争の始まりと言われていますが、
真相はわからないままです。
偶発的に起きてしまったのか
どちらかが意図的に撃ったのか
謀略があったのか。


戦後、著者の半藤さんが
牟田口さんに会って話を聞いているようで
独断で攻撃したことを認めています。


IMGP1225.jpg


上海から戦闘がはじまり、
南京へ向かいます。
南京は当時の中華民国軍の首都でした。
首都を落とせば
勝利である、という戦争論のもと、
南京へ進撃します。


そこで「南京事件」が起きます。


日本軍はいくつにも分かれて一直線に
進んでいったのですが
南から入った軍隊は余りに速すぎて
中華民国軍が布陣していないところを
追撃すると
中華民国兵が隣で飯を食っていた
というくらい
遮二無二突っ込んで、
追撃します。


便衣隊なのか、
民衆なのか、
正規軍なのか、
わけがわからない状況だったようです。
(便衣隊とは一般市民の服を着て
偽装するゲリラ)


南から入った軍は秩序を保って
戦っていたようで
後に参加者に聞いても
「虐殺などはまったくしていない」
と言っているそうです。


一方、東から揚子江沿いに行った部隊は
かなり激しく追撃を加えたようです。
南京城に達するまで
入り乱れての戦闘があって
兵隊や市民を殺し、
南京に突入してさらに
掃討戦をやったようです。


この著書では
今となっては
南京虐殺による
正確な被害統計を
得ることは
不可能に近いとしながらも
旧日本陸軍の集まりである
偕行社(かいこうしゃ)が
平成元年に出版した
「南京戦史」
(旧陸軍にとって不利になりかねない
記録や手記を隠さず、
ていねいに書かれた本)
によりますと


「通常の戦闘による
中国軍将兵の戦死者(戦傷病死含む)
約3万人」


「中国軍将兵の生存者
(渡江、釈放、収容、逃亡など)
約3万人」


「中国軍捕虜・便衣兵などの
撃滅、処断による死者
約1万6千人」


「一般市民の死者
約1万5千7百6十人」


捕虜や市民の殺害は
不法行為となります。


ただ、
南京大虐殺と言われる
30万人を殺すことは
あり得ないとしています。


当時の南京市民は疎開して
30万人もいなかったし、
軍隊もそんなにいない、
と推測しています。


けれども、
虐殺はあったであろう
としています。


昭和13年1月
作家の石川達三が
中央公論から南京へ特派されて
行っています。


南京事件は終わっているのですが、
それでも相当数の虐殺が
行われるのを目撃し
それを小説にして
「生きている兵隊」として
発表すると
直ちに発禁、執行猶予付き懲役刑
となります。


昭和14年2月
日本陸軍省
「秘密文書第四○四号」には
「事変地より帰還の
軍隊、軍人の状況」
という
中華民国から帰国した軍人から
聞き書きした記録があります。


「戦闘間一番嬉しいものは略奪で、
上官も第一線では
見ても知らぬ振りをするから、
思う存分略奪するものもあった」


「ある中隊長は
『余り問題が起こらぬように
金をやるか、
または用を済ましたら
後は分からぬように
殺しておくようにしろ』と
暗に強姦を教えていた」


「戦争に参加した軍人を
いちいち調べたら、
皆殺人強盗強姦の犯罪ばかりだろう」


軍紀はかなり
ゆるんでいたのではないか
と著者は推測しています。



中華民国軍は
戦わず逃げる、
けれども
いなくなったら
後から占領する戦いを
繰り返していました。


日本政府や軍部は
いつまでもやっていたら
大変と思い
和平工作をします。
在中国のドイツ大使トラウトマンが
蒋介石と日本軍の間に立って
うまい条件を出したときです。


総理大臣近衛文麿が


「われわれが勝ったのだから
賠償をよこせ」


などと言い出します。


和平工作をつっぱねたのです。


トラウトマンの和平工作は
昭和13年1月15日までに
打ち切られてしまいました。


翌1月16日
近衛さんは
国民政府を政府として認めず、
もう和平はしない
ということをしてしまいます。
つまり、戦いづつけなければ
ならなくなります。


日本軍は
漢口を陥落。
蒋介石は奥の重慶へ逃げます。


日本軍は主要都市だけを攻め
中国大陸の奥へ進むだけで
点と線しか取っておらず
面で押さえておらず、
そののびきった線を
攻撃されると
補給路は切られてしまいます。


ですから、
漢口は攻撃の終末点、限界点でした。


和平はせず、
蒋介石を相手にせずとなれば
日中戦争をなんとか解決するために
中華民国を後方支援している
アメリカ・イギリスを相手に
戦争をすることになるのです。



ここまで読んでみますと
南京事件の虐殺については
いろいろと意見があるようで
本当のところは
わかりそうにありませんが、
様々な条件が重なった結果、
多くの人々が犠牲になった
ということかもしれません。


便衣隊(便衣兵)は
一般市民と同じ格好をした兵士
のことをいいますが、
国際法上問題と指摘されています。


本来、兵は市民を守る立場にありますが、
市民に紛れ込むことは
兵が市民を盾にしているもので
見分けにつきにくく
当然、市民が兵と間違われることも
ありえるでしょうし、
区別せずまとめて攻撃
されることも考えられます。


南京へ進撃しているときは
市民、便衣兵、正規兵と
ごちゃごちゃと混ざった状態での
戦闘だったようですし、
被害は拡大したものと
推測もできます。


日本の軍紀はゆるいであろう、
という半藤さんの考えには
賛同できます。


天皇を無視して
勝手に軍を動かしたり
攻撃して戦闘を始めたり、
謀略をめぐらしたり
しているのですから
ここからみても
ゆるいでしょう。
上層部がそうですから
下もそうでしょう。


もちろん、
部隊を率いる隊長次第で
しっかりしているかどうか
わかれるところではあります。


それと
長期戦争では
兵士にかかる
精神的負担は大きいです。
その精神的負担を
発散するために、
あるいは
負担から逃げるために
様々な行動を起こすことも
あります。
攻撃的になったり、
虐殺、略奪、強姦などの行動も
戦争による精神的負荷を避けるための
ものかもしれません。


PTSD(心的外傷後ストレス障害)は
戦場に行った兵士によくみられる
症状のひとつです。
自殺する人もいるくらいですから
その負荷は相当のものでしょう。


戦闘がはじまるきっかけを
見て行きますと
些細なことではじまるようです。


偶発的な要素が大きいですが、
偶発的に起こるような状況を
作っているのも原因のひとつです。


お互い近いところで
軍事訓練をしている事自体、
偶発的に発生することを
誘う行為として
みることができます。


戦闘がはじまると
それはこちらの意思とは関係なく
戦禍は広がります。
コントロールできるものではありません。


相手がやめない限りやめない。


お互いが同じ理由を
持っていますし、
感情が大きなエネルギーと
なってさらに大きくなりますし、
やり返したらやり返す
という、連鎖が続きます。


現場であろうと
指揮であろうと
自己顕示欲がある人が
感情に支配されている人が
戦禍を広げず
最小限でおさめ
自ら引く行為を
できるとは思いません。


コントロールできるくらいの
国であるならば
そもそも
戦争は起こらないのでは
ないでしょうか。
起こらないように
しているのではないでしょうか。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



日本人は調子に乗るとダメになるらしい第8回

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