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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第6回、購入:ネットオフ、半藤一利:昭和史1926-1945。

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日本人は調子に乗るとダメになるらしい第0回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第1回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第2回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第3回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第4回
日本人は調子に乗るとダメになるらしい第5回


昭和史の内容の復習と
感想を書いています。
参考・出典はほとんど
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社です。


第五章
二・二六事件の眼目は
「宮城占拠計画」にあった


近代日本最大のクーデターと呼ばれる
二・二六事件。
これは陸軍内部の派閥争いから
発展したもののようです。


陸軍では
「皇道派」と「統制派」に
分かれていました。


明治・大正時代の陸軍は
長州、土佐、備前、薩摩が
グループを作っていたのですが、
その後、若手が出てきて
永田鉄山、小畑敏四朗、岡村寧次(やすじ)、
永田鉄山の右腕、東条英機
この4人が新しい陸軍をつくる
動きをします。


ですが、永田鉄山と小畑敏四朗は
相性が悪くて、
途中から陸軍内部は分派、
「皇道派」の中心が小畑敏四朗、
「統制派」の中心が永田鉄山、
となります。


今後の戦い方の意見もぶつかり合います。
「皇道派」小畑敏四朗は
日本最大の脅威はソ連であって
その準備をしなければならない。
革命後のソ連が強くなる前に
叩いた方が良い、という
「予防戦争論」


「統制派」永田鉄山は
ソ連と戦っている時に
横から中華民国に攻撃されたのでは
ソ連どころではなくなる。
中華民国が
まとまりきらないうちに叩け、という
「中国一激論」


結局は荒木陸軍大臣が喧嘩両成敗として
陸軍中央からはずし、
地方の旅団長に少将として飛ばします。


その後、荒木大臣が辞任し、
林銑十郎(はやしせんじゅうろう)大将が
陸軍大臣になります。
(朝鮮軍の司令官のとき、
勝手に満州に越境命令をした人です。)


林銑十郎大将は
「統制派」の大将格でした。
地方に飛ばした永田鉄山を中央に戻し、
陸軍政治を扱う
軍務局長にします。


永田鉄山は小畑派(予防戦争論者)を
次々と飛ばし
中国一激論者で固め
「皇道派」は総退陣となります。


けれど、これで決着するわけではなく、
若い青年将校が方法論で
いろいろと議論をしています。


ここで問題になるのが
北一輝「日本改造法案大綱」です。
皇道派の青年将校はこれに学び


「天皇は全日本国民とともに、
国家改造の根基を定めんがために、
天皇大権の発動によって
三年間憲法を停止し、
衆議院と貴族院の両院を解散し、
全国に戒厳令をしく」


全てを押さえて
大改造をする考えです。


統制派のエリート将校は


「そんなばかなことをしても
国民はついてこない。
おれたちにまかせておけ、
必ず日本を総力戦に
見合う強固な軍事態勢国家に
してみせるから」


と言って文書にします。
いわゆる「陸軍パンフレット」
「陸パン」をつくり
公表します。


「たたかひは創造の父、
文化の母である」


この言葉ではじまります。
内容は国防のオンパレード
らしいです。
日本が国家総力戦体制、
高度国防国家を作るためには
ナチス・ドイツのように
資本主義経済体制を壊して
統制経済にせねばならない、という
軍が統制する国家です。


けれど、政治家に追求され
軍の一部の意見にすぎないことを
林銑十郎大将は弁明すると
統制派の陸パンは
腰砕けになります。


IMGP1225.jpg


皇道派青年将校らは
あ然とするとともに
統制派のエリートには
まかせておけないと
裏側で動き始めます。


昭和十年(1935)
皇道派は動き始めます。
統制派で固められた陸軍中央を
信じてません。


陸軍省軍務局長室に
「皇道派」相沢三郎中佐が乗りこみ
軍刀で永田鉄山少将を斬りつけました。


これをきっかけに
拡大していきます。


反乱部隊1483人。
二月の寒い時期、外套を着用、
機関銃、重機関銃、
軽機関銃、小銃、拳銃
約10万発を越す弾薬を持ちます。
完全武装です。


首相官邸襲撃。
陸軍大臣官邸占拠。
侍従長官邸襲撃。
内大臣私邸襲撃。
教育総監私邸襲撃。
警視庁占拠。
大蔵大臣私邸襲撃。
朝日新聞社襲撃。
前内大臣別邸襲撃。


これを知った昭和天皇は
普段の背広姿でなく
大元帥の軍服に
身を固めて出てきます。
大元帥として「事件を早く抑えろ」と
命じます。


皇道派の青年将校のもくろみは
暫定内閣をつくり(首相は殺されています。)
軍部主導による国家改造に突き進むこと。
宮城を押さえ、天皇陛下を押さえること。
昭和天皇を背後に置くことによって
自分たちが官軍となる、
という考えのようです。
「皇道派」ですから
天皇のために、忠義のために
行動しているらしく、
天皇陛下は理解して味方になってくれる
と思っていたようです。



宮城占拠計画は失敗します。
首相官邸、赤坂、永田町一帯を
「官軍」のつもりで占拠していましたが、
宮城内に入ることはありませんでした。
宮城一帯を守っているつもりだったようです。


天皇は本庄侍従武官長を
12回も呼びつけ
「早く鎮圧せよ」と
督促しています。
最初は手を打たないのですが
天皇の鎮圧の意思が固いことを知ると
占拠部隊に大元帥命令が出ます。


「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある
将校以下をもって速やかに現姿勢を徹し
各所属部隊の隷下に復しむべし」


決起部隊の占拠は認めない、
直ちに原隊に帰れ、という命令で
占拠し続けると
大元帥命令に反抗した「逆賊」
となります。


その後、空からビラをまき
アドバルーンを上げ
ラジオで放送します。


「下士官兵に告ぐ」のビラ
一、今からでも遅くないから原隊へ帰れ
二、抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する
三、お前たちの父母兄弟は国賊となるので
  皆泣いていおるぞ


「兵に告ぐ」のラジオ
「勅命が発せられたのである。
すでに天皇陛下の御命令が
発せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと
信じて絶対服従をして
誠心誠意活動してきたのであろうが、
すでに天皇陛下の御命令によって
お前たちはみな原隊に復帰せよと
仰せられたのである・・・」


中には玉砕あるのみと
考えた人もいるようですが、
事件は終わりました。


これ以後、軍は
二・二六再発を使って脅し
ほとんどの体制が
軍の思うままに
動いていくことになります。


「皇道派」は無くなりました。


広田弘毅(ひろたこうき)内閣が発足。
軍部独走の道を開くことになります。


「軍部大臣現役武官制」の復活。
現役軍人でなければ
陸軍大臣、海軍大臣になれない制度です。
結果として、陸軍海軍がノーと言えば
大臣ができない、
つまり、内閣の組閣ができない。
政治に介入するための伝家の宝刀を
軍がにぎったことになります。


日本とドイツは「防共協定」を結びます。
このときのドイツはヒトラー政権です。
ドイツも国際連盟を脱退して
孤立していました。


陸軍統制派エリート幕僚グループが
海軍の軍令部と相談して
国策の基準を決めます。
「北守南進」政策です。
これによりアメリカ、イギリスと
ぶつかることになります。


「不穏文書取締法」をつくります。
これにより
少しでも反政府的、反軍事的なものは
即、取り締まられる状況になりました。




党内の派閥すらなくなって
独裁がよりできるようになります。


独裁。


これは君主主義です。


これは民主主義の対義語です。


独裁とは
君主に大きく左右されるやり方です。
良君であれば、大変良くなりますが、
大抵の場合はうまくいきません。
次の代が良君である保障はないからです。


このやり方は
どんどん複雑化する現代において
無理があります。
ひとつの価値観だけでは
把握できないからです。


独裁でうまくいった試しがありません。
日本長期政権の江戸時代であっても
あれは参勤交代制度をつかって
地方から人質を取り、
財政負担をかけ、
抑えつけていたからであり、
島国という
海で守られて
他国と接することが
なかった時代の話です。


海を乗り越える技術が発達し
黒船が来航したことで
日本は変化し
近代日本へと向かったわけです。


成長するには
独裁は捨てなければ
ならないのかもしれません。
変化に独裁は向きません。


そうしますと、
当然ながら
まとめるのに苦労します。
それぞれの価値観は違うからです。
ですから、ルールを決めるのです。


民主主義のルールは話し合いです。


日本古来のルールで
話し合うことを決めたルールがあります。
参考になるかもしれません。


聖徳太子が作ったと言われる
十七条憲法です。


一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、


で始まる決まりごとです。


きちんと読んだことがないので
詳しくわからない部分がありますが、
話し合いの部分を見ていきますと
(私なりに解釈してみますと)


第一条には
協調や親睦をもって話し合えば、
道理にかなう、とあります。


第四条には
上の者が礼法を守らなければ
下の者も守らない。
上の人たちが礼法を守っていれば
社会の秩序は乱れないで
自然と治まる、とあります。


第十条には
それぞれの価値観が違うのだから
自分の考えと違うからといって
怒ってはいけない。
だれもが賢くもあり愚かでもある、
とあります。


第十七条には
物事はひとりで決めないで
みんなで議論して決めなさい。
小さなことは必ずしもみんなで
決めなてくてもいいけれど、
重大なことはみんなで決めなさい。
そうすれば、道理にかなう結論が出る、
とあります。


民主主義の話し合いにおいては
言い勝つことや
論破することなど
勝ち負けに行きがちだけれども
(討論やディベート)
この十七条憲法は
相手を尊重することを前程としています。
勝ち負けではありません。


人それぞれ価値観が違うので
相手の価値観に耳を傾けることから
始まるようです。


仲良くしましょう、というよりも
お互いを尊重し合いながらも
お互いの意見をしっかりと出し
話し合いましょう、という
ところではないでしょうか。


第一条のところに


また達(さと)れるもの少なし。


とあります。


悟った人は少ないので、
という前程がありそうです。


そういった人が常に出てくるのであれば
その人に全ての判断ををまかせても
いいのかもしれないけれど、
そんな人、めったにいないので、
みんなで話し合っていきましょう、
ということなのかもしれません。


続く。



【参考・出典】
昭和史1926-1945
半藤一利
平凡社


ウィキペディア-十七条憲法



【購入先】
ネットオフ
http://www.netoff.co.jp/index.jsp



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岩手県盛岡市在住。もりおかの中から感じたことを書いております。個人的なブログです。【このブログについて】

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