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しあわせは人々の間を旅しているかもしれない、Eテレ:100分de名著、~お正月スペシャル~100分de幸福論 第四章心理学。

お正月、NHK教育(Eテレ)では


100分de名著 幸福論


というものが
お正月スペシャルとして
放送されておりました。
幸せって何だっけ
ということを各分野から
名著を持ちよって
探っていく番組です。


第一章 文学
島田雅彦(作家)


第二章 経済学
浜矩子(同志社大学大学院教授)


第三章 哲学
西研(東京医科大学教授)


第四章 心理学
鈴木晶(法政大学教授)


番組の感想と内容の復習をかねて
書いています。


第1章 文学 はこちら。


第2章 経済学 はこちら。


第3章 哲学 はこちら。


第4章 心理学


幸せとは主観的なものであり、
幸せと心は切り離せない部分です。
幸せを語る上で
心理学は必須と言えるかもしれません。


鈴木さんが紹介してくれる本は


フロイト 精神分析学入門


です。


今回の幸福論で紹介された本の中で
唯一読んだことのある本なのですが、
十数年前のことですので、
まったくといっていいほど
覚えておりません。
とっくに古紙に出してしまってます。
リサイクル用紙として
新たな紙の使命を全うしているでしょう。


今回の放送内容を見ますと
フロイトの代名詞といえる


「無意識」


とその簡単な構造の説明をし、
その心の構造は
だれしもが持っているのだから
お互いが理解しようとすれば、
理解できるだろうし、
共感も出来るだろう、
という流れです。


基本的なところにしか
触れないところをみますと
文学、経済学、哲学で
紹介された内容も
その本の代名詞的なものだけであり、
一部分でしかないのでしょう。
難解な内容で興味がない人には
敬遠しがちなものですが、
そういった初めての人を対象に
内容をわかりやすく説明してくれ、
そこから「幸せとは?」
というところに
話をつなげてくれていたのだろう、
と気付かされます。



この精神分析学入門とは
1915年から1917年にかけて
ウィーン大学で
一般向けに講義を行った内容を
収録したものです。


ジークムント・フロイト
(1856.5.6-1939.9.23)
はオーストリア帝国生まれ。


精神分析とは
治療法の名前で
ヒステリーを精神分析を使って
治療していたようです。


フロイトの功績は


「無意識」


を発見し、体系的に捉えたところに
あります。


無意識とは
自分の知らない自分であり、
意識の下にあります。
意識は氷山の一角であって、
その下には
自分の知らない無意識の領域が
たくさんあります。


知っている自分なんて
ほんの一部でしかなく、
知らない自分で成り立っていると
言ってもいいかもしれません。


発見するにあたって
の出発点。


人はどうも動物と
違うところがある。
それは、


「人間は本能が壊れている」


ようだ、というところから
始まるようです。


動物は
本能が行動に結びつきます。
それは体に組み込まれていて
考えなくても
本能の従って行動します。


けれど
人間は本能が行動に結びつきません。
慾動というものに突き動かされ行動します。
慾動とは


欲望 + 行動


を組み合わせた言葉のようです。


人間の二大本能


性欲


食欲


があります。


性欲に関しては、
動物には
時期がくれば発情期がやってきて
行動しますけれど、
人間は
発情期はありません。
けれど、年中その気になればOKです。


食欲に関しては
動物は
自分の体に良いもの、合ったものを
食べますけれど、
人間は、
必ずしも体に良いものを食べるとはかぎらない。
好き嫌いがあって、
体に良くないものも食べます。


どうやら、
自分というのは
心というのは
そう簡単ではないらしい、
と思ったようです。


フロイトは
無意識を発見し、
心を体系的に捉え、
さらに発展させます。


心には
超自我、自我、エスという
3つの領域があると考えました。


「自我」
これは「わたし」であり、
意識の部分にあたります。


「エス」
これは無意識の部分にあたり、
人間の本能の部分と言えます。
過去の経験、記憶、
そういったものが積み重なっています。
エスは認識できませんけれど、
エス(無意識)側から自我(わたし)側に
あーしろ、こーしろ、と
欲求を突き付けてきます。


「超自我」
これは良心のようなものです。
第2章経済学で出てきた
道徳感情論の中の「良心」
第3章哲学で出てきた
意識から変化した「理性」
にあたるものでしょう。
社会色の強い意識です。
エス(無意識)側からきた欲求に対し、
規制をかけたりします。


ここで注目しておきたいのは


良心の「ようなもの」


というところです。


良心とは言っていない。


これをしたら迷惑になるだろう、とか
これは犯罪だろうとか、
相手のことや社会的なことを
考えて行動を規制するものもあれば、
はずかしい、とか、
世間体を気にしたり
評価を気にしたり、
相手のことよりも
保身を優先することで
行動を規制することもあるでしょう。
場合によっては危機察知、予測によって
行動を規制することもあるかもしれませんし、
文化的な理由で
行動を規制することもあるかもしれません。


フロイトは以下のように書いてます。


「自我はエスに追いまくられ
超自我に締めあげられ
現実に突き飛ばされながら
何とか調和を作りだそうと奮闘しているのです。」


これがストレスの原因でしょうし、
あまりにもひどくなれば
うつ病などの心の病気にもなるでしょう。


自我(意識、わたし)は
すごく弱く、もろいもので
自我が安定しないと
幸福感は得られないと言います。


自我を安定させるには
どうしたらいいのか。


それは


「自分をもっと知る」


ことだと言います。


自分を知らないと
求めている幸せがわからない。
自分の知らない自分は
それを幸福とは思っていないかも
しれません。


意識が幸せだと思っていることと
無意識が幸せだと思っていることが
違っていれば
それは幸せではなく困った状態で
心のバランスを失うことになる
と言います。


無意識は自分の知らない領域です。
知らない自分を知ろうとすることは、


自分と向き合うこと、


ということではないでしょうか。


これは覚悟と努力が必要でしょう。
触れたくないことにも
向き合うことが必要です。


人と動物の違いは「言葉」です。
その言葉を使えば
無意識を全てではないけれど
知ることができると言います。


フロイトの後継者ラカンは


「無意識は言葉で出来ている。
人の心は絶えず自分の物語を
作っている」


と言うのです。


ただ、
ここで私はこのラカンの考え方に
ちょっと違和感を感じます。


言葉で自分を探ることはよいと思うのですが
無意識が言葉で出来ているとは
思えないのです。


人々は
言葉に出来ないことを
言葉以外のことで表現します。


絵、音楽、踊りなど
そういったもので表現します。
それがときには
言語以外のコミュニケーションツールの
役割も果たします。


言葉ができる前は
絵で伝えたり、残したり
音や身振り、手振りで伝えていたでしょう。


心はイメージのように
かたちのないもので
それを表に出そうとするときに
言葉を使ったり、
絵を使ったり
体を使ったりするのだ思います。


ただ、言葉が一番扱いやすく
利便性、効率性がありますので、
言葉が主流になったのでしょう。


人は心を知ろうとするときに
言葉という道具を使い
心を言葉というかたちにして
汲み取ります。


ですから、
私は言葉というものは


心に一番近いかたちのひとつ


だと思っています。


意識せずに
浮き上がってきた言葉というものは
純度の高い心のかたちと
言えるでしょう。


フロイトは言葉について


「言葉はもともと魔術でした。
われわれは言葉の力によって
他人を喜ばせることもできれば
絶望の淵に追いやることもできます。
ですから精神療法の手段として
言葉を使うことを軽んじてはいけないのです。」


と言っております。


ここで番組進行の
伊集院さんが
第3章哲学で
西さんが最後に言っていた
愛について
鈴木さんに聞きます。
(話しの方向を
愛方面へ切り替えます。
きっかけを作ってくれました。)


心の構造は人それぞれ違うわけではなく、
他人も自分と同じような構造になっている
はずであるから、
より相手を理解できる、
と言います。


人は独りでは生きていけない、
独りでは幸せになれない。
(第二章、第三章を参照のこと)


そうしますと、
人とのつながりの中で
幸福を見つけて
いかなければならない。


ですから、
一番身近な関係、
自分が愛せる人との関係が
大事になってくるのではないか、
ということです。


最後に鈴木さんはフリップに


幸せとは


「愛する人の幸せを願うこと」


である。


と書きました。


結局は相手にしたことが
返ってくる。
理想は見返りを求めず
人に与えることができるか、
ここが出発点のようです。



本音を書かせていただければ
第4章の心理学は
番組の最後ですし、
いままのでの流れを汲んで
まとめなければならず、
その結果、
少々強引なまとめ方になりました。


これは鈴木さんよりも
作り手、編集側のNHK側に
原因がありそうな気がします。


第4章の内容は
心の内側がメインで
自我を安定することが幸福で、
そのためには自分を知ることが大切だ、
というあたりはよかったのですが、
そこから愛にもってくるのは
強引でしたし、
だから、どうも
しっくりこないところがありました。


番組の流れやその意図から


人との関わりあい、
コミュニケーションが大切


という流れに持っていこうと
しましたので、
番組の放送時間が決められている以上、
まとめなけらばならない、
という制約もあってか、
強引に愛でまとめた、という感じに
受け取れてしまいます。


このあたりは
鈴木さんも不本意ではないでしょうか。
(もし、心理学を教えている人が
しっくりこないことを
番組サイトの意図で
言わなければならなかったのならば
それは教授の立場に損害を与えている、
と考えることもできます。
信頼に傷がつきます。
今後の活動にも影響しかねません。
ただ、ここで書いていることは
私の勝手な妄想レベルの
推測にすぎない、ということも
書いておきます。)


心の構造が同じだからといって
相手を理解できるはず、というのは
少し無理があるように思います。


同じ心のかたちをもった人はいません。
価値観も人それぞれです。
だから、おたがいを理解し合う
必要があると思うのです。


番組サイドの意図は
こうでしょうか。


第一章で
自由に自分勝手に生きることは
本当に幸せなのだろうか、と投げかけ


第二章、第三章で
幸せは人とのつながりの中からだよ、と言い、


第四章で
愛でまとめる。


たぶん、不本意なのは
第一章と第四章の人たちです。
そういう役回りをさせられたのですから。
(第一章島田さんは日曜美術館で
第四章鈴木さんは100分de名著の2月で
出演機会があります。
偶然でしょうか・・・。
けれど、2月の100分de名著は必見です。
愛についてです。
人々は愛を誤解しているといいます。)



おさらしをしますと、


幸せとは


文学: 「断念ののちの悟り」


経済学:「ひとの痛みをわかること」


哲学: 「ほんとうを確かめあうこと」


心理学:「愛する人の幸せを願うこと」


である。


一見しますと、
経済学、哲学、心理学が共通しています。
自分よりも相手のために、というところで
共通点があります。
けれど、文学の断念も共通していると言います。


心理学では
愛されることばかり考えることを断念し、
愛することを考えるようになります。


哲学では
承認されること、褒められることを断念し、
ほんとうを確かめようとします。


経済学では
自分からのこだわりから解放し、
自分の幸せにしがみつかないで
人の幸せを考えます。


自分の幸せよりも
自分以外の幸せのために
行動したほうが
結果としてそれは自分の幸福感に
返ってくる、というところでしょうか。


いろいろと
学ばせていただきました。
出演された方々、
制作してくださった方々、
ありがとうございました。



100分de名著
Eテレ(NHK教育)
水23:00-23:25 (再)翌水5:30-5:55,12:25-12:50
http://www.nhk.or.jp/meicho/
~お正月スペシャル~100分de名著 幸福論
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2014special/



2014年2月の100de名著
エーリッヒ・フロム「愛するということ」
愛されることばかり考えている人
いい人がいない、出会いがないと思っている人
情熱的なものが愛と思っている人
第1回でばっさりと斬られます。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/30_ai/index.html


■コメント返信
Re: タイトルなし
こんばんは。

言葉はあまりにも人に大きな影響を
与えていることはわかります。
人は意味を求める生きものですし、
その意味を考える意味でも、
言葉は必要です。
いや、言葉ができたから
意味を考えるようになった、といったほうが
いいかもしれません。
人にとって、
言葉は特別なものなのでしょう。

わたしも言葉は道具として以外の
特別なものをもっている、と
考えていた時期がありました。

けれど、
言葉以外を扱う人々を見たり、
その人たちの話しを聞いたり
その人たちの作品に触れていますと、

どうも、人間は
言葉にとらわれすぎているのではないか、

と思うようになりました。

アート、芸術の世界に生きる人々から
わたしは大きく影響を受けることになります。

あの世界は
ことばではなく、
別の世界なのです。

それは絵画、音楽、踊りなど
様々な世界があります。

彼ら彼女らが
表現しようとしているもの
それは言葉ではとうてい表現できないものです。

言葉にしかできないこともありますけれど、
言葉にできないことはたくさんあるのだ、
と知ることになりました。

当然ながら自分を表現しようとしていることを
言葉を使って
自分の内面に手をいれて
さぐるのですが、
それを表に出すと、
そこにあるこころのかたちは、
絵、音、踊りなど
様々なかたちで
表に出ているのです。
それはとても魅力的な世界です。

あるアーティストの手法を
伝え聞いたのですが

いかに内面のイメージを
素直にそのまま
外に出すか、

ということを意識しているそうです。

だから、
そういった表現をするときには
何も意識せずに
無心に近い状態で
表現をするそうです。

その話しを聞いたとき

それって、
言葉になる前の心の状態を
そのまま
外に出そうとしているのではないか、

と私は思いました。

言葉以外を使って
表現しようとしている人たちは
どうやら、心にある言葉よりも
言葉になっていない何かを
表現しようとしているのでは
ないでしょうか。

ですから、
言葉が
心の外にでるかたちのなかで
一番すぐれているもの、
とは思わないようになったのです。
特別扱いすることはなくなりました。
言葉と同列に
絵や音や踊りなども
心のかたちのひとつとして
考えています。

言葉が一番優れているように
扱うことは
他の様々な表現に対して
劣っている表現と言っているようなもので
それはそれで失礼ではないか、
と思うようになりました。

私にはそういった経緯があるため
心の中(無意識)は
言葉でできている
というのには違和感を感じたのです。

人間にとって
言葉の存在は
あまりにも大きすぎます。
そのために
その影に隠れてしまってしまうものが
多いように思っています。

すこし話は変わりますが、
私はどの宗教や神道にも属していませんので
そういった世界のものの考え方には属しません。
否定はしませんし、
ひとつのものの考え方として捉えますが、
その宗教の世界の考え方がそうだから・・・と
いってしまうのは、
場合によっては、他の考えを否定することに
つながる可能性もありますので
そういった世界のものの考え方を
出す場合には、
いろいろと考慮や配慮すべきことが
あるように思います。

コメントありがとうございました。
いろいろと
さらに向き合うことができたように思います。
私はちょっとトゲのあることを
書いているかもしれませんが
考えていることを素直に
ぶつけさせていただきました。
どのように受け取るかは自由ではありますが、
悪意、悪気があるわけではありません。
こういうコメントを受け取らなければ
書くこともありませんでしたから
感謝しております。
ありがとうございました。
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ウシポニ

Author:ウシポニ

岩手県盛岡市在住。もりおかの中から感じたことを書いております。個人的なブログです。【このブログについて】

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  • 感想文の更新は終了いたしました。ブログの更新も2016年6月をもって終了いたしました。今後の更新はございません。今までありがとうございました。
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